(1)南海トラフ沿いで発生する巨大地震

(安政東海地震1854年12月23日(嘉永7年(安政元年)11月4日)M8.4)及び東南海地震(1944年12月7日、M7.9))

 安政東海地震は、紀伊半島東部の沖(熊野灘)から駿河湾にかけてを震源域としたプレート間地震である。駿河湾沿岸から遠州灘沿岸では震度6〜7相当であったと推定される(図6−8)。また、名古屋市付近も震度6相当であったとみられる。被害は関東から近畿地方に及んだ。地震動による被害が大きかったのは、駿河湾沿岸から伊勢湾にかけての沿岸地域などである。また、山梨県甲府付近から長野県松本付近などにかけても被害が大きかった。津波は房総半島〜高知県の沿岸を襲い、特に下田、駿河湾や遠州灘の沿岸、伊勢志摩などで被害が大きかった。津波の高さは、下田付近で4〜7m弱、駿河湾沿岸で、4〜6m、伊勢湾内で2m前後であった(図6−9)。この地震の32時間後に安政南海地震(M8.4)が発生した(詳細は8−2(1)参照)。

 東南海地震は、紀伊半島東部の沖(熊野灘)から遠州灘にかけてを震源域としたプレート間地震である。三重県津市や静岡県御前崎町で震度6が観測された(図6−10)。また、被害は静岡、愛知、岐阜、三重の各県に多く、滋賀、奈良、和歌山、大阪、兵庫の各県にも小被害が生じた(図6−11)。全体の被害は、死者、行方不明者1,223名、負傷者2,864名、住家全壊17,599などと言われる{16}が、太平洋戦争中に発生したこともあり、被害数は調査により大きく異なる{17}。軟弱な地盤の地域に被害が大きく、名古屋市では住家全壊1,024、同半壊5,820{18}などに達した。また、静岡県、天竜川東側の地域(太田川流域)では家屋や道路、鉄道などへの被害が大きかった(図6−12)。津波は伊豆半島から紀伊半島の間を襲い、津波の高さは、伊勢湾及び渥美湾内で0.5〜2m、遠州灘沿岸で1〜2m、下田市で2.5mであった(図6−13)。なお、この地震に伴い、通常は沈降の傾向を示す駿河湾西岸から遠州灘沿岸にかけての地域で最大約15cm隆起した{19}

 有感、無感の余震回数は、図6−14のように減少した。また、最大の余震は、12月12日に発生し、その大きさはM6.4であった。