(1)日向灘の地震((1662年10月31日(寛文2年9月20日)、M7 1/2〜7 3/4)及び(1961年2月27日、M7.0))

いずれも、日向灘付近を震源域とするフィリピン海プレートの沈み込みによるプレート間地震と考えられる。

 1662年の地震は、日向灘付近の地震のなかでも最大の被害をもたらしたものである。延岡、高鍋、佐土原、飫肥で城の石垣が崩れ、多数の家屋が全壊するなどの被害が生じた。震源域は日向灘の南部と推定され(図9−8)、大淀川河口、加江田川河口などでは、地震と同時に地盤沈下を生じ、そこへ高さ4〜5mと推定される津波が襲来して、15名の命と数多くの住家および田畑を水面下に呑み込んだ{11}。延岡でも津波により田畑が海水に浸かった。詳細は不明であるが、大隅地方も被害を受けた可能性がある。

 1961年の地震もプレート間地震と考えられており、宮崎市、油津町(現在の日南市)、都城市で震度5が観測された(図9−9)。宮崎市では、負傷者3名、家屋全壊などの被害{12}が生じた。また大淀川沿いや飛行場滑走路に地盤沈下を生じ、ガス管や水道管の故障が続出した。震源に近い日南市でも、家屋への被害が生じた。志布志町では、崖崩れにより死者1名{13}を出している(図9−10図9−11)。また、地震発生後1分ほどで油津町に小規模な津波が到達した{14}。余震は順調に減少した(図9−12)。

 津波や地震動による被害の様子などから、1961年の地震は陸域近くのやや深い地震であるのに対して、津波が大きかった1662年の地震はより沖合の浅いところが震源であった可能性が強い。