(4)当地区の調査結果のまとめ

霞川低地ではほぼ同じ標高で、深さ1m〜1.5mの時代の異なる埋没谷が幾重にも重なっていることが明らかになった。つまり、霞川低地では一方的に堆積物が堆積するような環境ではなく、侵食と堆積を繰り返していたことが明らかになった。しかも、埋没谷中の堆積は、比較的短期間(特に埋没谷Aおよび埋没谷C)に終了したことがうかがえる。

埋没谷中の堆積物年代を表2−8に示す。この年代は、試料が再堆積した可能性のあるデータを除き、値のそろった年代測定結果を整理したものである。この表によれば、2万年前以降、約3,500〜5,000年間隔でかなり規則的に繰り返し、埋没谷が形成されてきたことを示している。

埋没谷の深さは埋没谷Aで1m〜1.5mであり、谷底はほぼ同じ標高に形成されている。埋没谷の形成が、立川断層の活動によるとすれば、この地域における1回の変位量は、平均変位速度と活動周期の関係から、数10cm程度となる。この程度の変位量で、このような埋没谷が形成されるかは、問題点として残こる。霞川を横切る立川断層の活動形態は、多少なりとも霞川にせき止めを起こすものであるが、一方的に上流側が沈降するだけであるならば、一方的に堆積の場であったはずであり、霞川で見られた現象を説明しにくい(図2−9上)。

表2−8  埋谷堆積物の形成年代と埋もれ谷の位置

仮に、立川断層への動きと同じ周期で、広域の河川勾配を急にし、河川全体を侵食の場にしたような地盤の運動があったとすれば、侵食と堆積の繰り返しが生じることを説明できる。つまり、図2−9下のように、立川断層の相対的な運動だけではなく、同時に霞川全体の河川勾配を急にさせるような運動があれば、断層活動後一時的に「古霞湖」付近で堆積しやすい環境ができた上に、上流側からの堆積物の供給が多くなって谷が埋められ、やがて下流側から始まった谷の下刻が「古霞湖」の位置に達して谷を刻むことになる。一旦、浸食の場となっていた河道が、一時的に堆積の場になるきっかけとしては、立川断層の一回の変位が数10cm程度であっても、十分であろう。

この点についてはデータがなく、今は仮説の域を出ないが、いずれにしても谷の下刻と埋没がかなり周期的に生じていることは事実で、このような周期性の説明には、断層の活動が原因であるとするのが最も好都合である。これらのことは断層活動の直接的証拠でなく、間接的な情況証拠にすぎないが、周期が山崎(1978)が推定した5,000年周期とほぼ一致していることからも、その可能性は高いと考えられる。

角田(1983)が考えた手法を踏襲して今回の調査を行い、断層活動の結果形成されたと考えられる埋没谷中の堆積物の年代を、多数の炭素同位体年代測定結果により精度高く決定できたことによって、角田ほか(1988)および角田ほか(1994)の推定した断層活動年代を修正することができ、山崎(1978)の検討した断層活動周期との矛盾がなくなったことは、今回の調査の成果として特に評価できると考える。また、このことから断層北端に位置する霞川における調査が、断層全体を代表しないのではないかとの懸念もなくなったとみてよい。

埋没谷の形成を立川断層の活動の結果とする仮説が正しければ、最終活動の時期が1,000〜1,100年前と角田ほか(1988)よりかなり幅狭く確定したことで、この断層の当面の安全性がより高まったと考えられる。

ただし、断層活動と埋没谷の形成の関連については、なお想像の域を出ず、メカニズムを検討するには具体的なデータが不足していると言わざるを得ない。たとえば、霞川全体の広い範囲の地質構造に関する調査、解析を行い、このような埋没谷が「古霞湖」付近に限られていることを確認し、同時に他地域の河川下刻速度を把握すれば、この点を明らかにすることができると考えられる。

しかしこのような調査は、かなり広域で大規模になることから、今後の調査としては、とりあえず次に述べる箱根ヶ崎地区において、断層活動履歴にも関する傍証を得て、この地域の調査結果の信頼性を高めることが効率よいとみられる。

図2−9 河川勾配と断層の変位