3−1−1 山崎断層系の概要

兵庫県山崎町付近の中国自動車路に沿って北西−南東方向に直線的に延びる山崎断層系は、北西方向から大原断層、土万 (ヒジマ) 断層、安富断層、碁坂(暮坂)峠断層、琵琶甲断層、三木断層と名付けられた活断層から構成されるもので、総延長80kmに及ぶ。ほぼ全域にわたって左横ずれ運動を示す小谷の屈曲がみられる。山崎断層系に沿っては、微小地震の集中が高く、地震予知のテストフィールドに選ばれており、歪み観測その他各種の測定が継続されている (断層の名称は活断層研究会、1991によるがカッコ内の名称が本来の地名に由来する名称) 。

松田、岡田 (1968) は、日本の顕著な横ずれ断層として山崎断層系をとり上げ、変位地形から判断すると明瞭な左横ずれ断層であるが、5万分の1地質図幅「佐用」を参照すると基盤の白亜紀およびそれ以前の諸岩石は、この断層によって右横ずれ (1〜3km) に変位している(図3−1−1図3−1−2)。したがって、この断層は、白亜紀以降はじめは右ずれの変位をしたがある時期から左横ずれとなり、現在 (第四紀後期) に及んだ。中国地方では山崎断層系だけではなく、一般に基盤岩の変位方向は北西方向の断層で右横ずれ、北東方向の断層は左横ずれを示す傾向があるので、白亜紀以降第四紀以前の応力場は、現在と異なるとしている。

池辺、藤田、松田、岡田 (1969) は、山崎断層を兵庫県河西郡和泉町から山崎町をへて、岡山県英田 (アイダ) 郡大原町に至る長さ60kmの活断層としている。白亜紀末期に生成し、その動きは2km程度の右横ずれ、中新世〜鮮新世に200〜300mの南落ち運動を推定している。福崎町〜大原町に至る50kmの区間には多くの部分で50〜200m程度の左横ずれ変位が認められ、その変位運動は、10万年以降現在まで断続的に行われているとし、横ずれ変位速度を1〜2m/1,000 年としている。

活断層研究会 (1980) は、それまでの文献成果をとりまとめ、主に空中写真判読を行い山崎断層系を図示し、総延長80km、確実度主にI,部分的にU・V、活動度B級、左ずれ、北側隆起と記載した。

猪木 (1981) 20万分の1地質図「姫路」は、山崎断層系を、大原町金谷付近から山崎町寺西付近までと佐用町桑野付近から福崎町西治付近にいたる2本の活断層 (主要なもの) で示している。図から判読するとその長さは約48kmである。

図3−1−1地質調査所 (1985) 50万分の1 活構造図「岡山」は、活断層研究会 (1980) の山崎断層系とほぼ同じ位置に主として第四紀後期に活動したほぼ北西−南東方向に併走する複数の活断層を図示し、北のものは平均変位速度は1m/103年以上で、左横ずれ断層としている。断続する断層の総延長を図から読み取ると、その長さは約58kmである。

岡田、安藤、佃 (1987) は、山崎断層系の内、地形的に横ずれ変位が明瞭な安富断層の二つの沖積谷底でトレンチ調査をおこなっている。トレンチは4箇所で、トレンチの下部の地層は断層変位を受けているが、上部の地層は断層変位以降に堆積している。年代測定や土器鑑定から断層の起こった時期が求められてた。最新の運動は7世紀後期から12世紀の間に起こっており、歴史地震として知られている868年の播磨地震 (M7.1) に対応するとされている。さらに、この地震に先行する2つの地震が認められるが、詳しい活動時期を特定することは出来なかった。活動間隔は短くて1,000年程度であるが、数千年程度と見なすのが妥当とされている (岡田ほか、1987, 岡田ほか、1979, 佃ほか、1979, 岡田ほか、1980, 岡田ほか、1981) 。

福井 (1981) は、山崎断層系は長さ80kmに及ぶ北東側地塊隆起で、左横ずれの活断層とし、3〜4本の長い断層とそれに付随する数本の短い断層で構成されるとしている。断層系を構成する各断層は、並走して配列するが、現在も活発な断層運動の起こっている区間は断層系の走行方向に重複することはなく、変位は構成する断層間で移り変わっていると判断している。移り変わりの部分では、長い断層と斜交する短い断層が認められるとしている。さらに断層系北西端で、 (大原断層相当の) 明瞭な断層変位が認められるのは、古町西方までと、その北西方向の延長で変位は数本の断層に分岐しているとしている。

活断層研究会(1991)は、「新編日本の活断層」において山崎断層系を耶岐山北方から南東方に雁行状に延び、山崎町を経て、三木市市街地付近に至る長さ87km、確実度T、活動度Bの北側隆起の左横ずれの活断層としている。

山崎断層系を構成する各断層の長さ等の性質は、表3−1のとおりである。 この内、大原断層は、山地斜面の高度不連続から北側隆起量200m、谷尾根の屈曲から左ずれ変位置400mとしている。

また、安富断層のトレンチ調査結果から、最新の地震活動として868年の播磨地震 (M7.0 以上) の可能性が大きいとし、活動間隔は数1,000年程度とみなされるとしている。

遠田、宮越、井上、楠、鈴木 (1995) は、山崎断層系北西部を構成する大原断層の活動史解明のため、大原町古町等で電気探査 (比抵抗2次元探査) 、ボーリング調査およびトレンチ調査をおこなった。トレンチは古町の吉野川に近接した場所で、トレンチ壁面には砂礫層を切る複数の大原断層相当の断層 (断層面;N60〜70°W、45〜85°N) が出現した。断層で切られる地層の年代とその断層を覆う地層の年代との関係から、山崎断層系中、大原断層−土万断層−安富断層は同時に動くか、時間差を伴ったマルチプルイベントを起こす関係を推定している868年8月3日(貞観10年7月8日)播磨・山城の地震については、文献から以下に示すように要約した。

A.概要

宇佐美(1966)「新編日本被害地震総覧 増補改訂版」によると、「868年8月3日(貞観10年7月8日)播磨・山城

λ=134.8°E φ=34.8°N(D) M≧7.0[U]

播磨諸郡の官舎、諸定額寺の堂塔ことごとく頽倒、京都では垣屋崩るるものあり、震央は一応播磨の国府(現姫路)とする。山崎断層の活動によるとも考えられる。」と記述されている。被害の状況から、震央位置は兵庫県加古川から姫路付近に一応推定されているが、地震被害に関する記録が殆どないため、震央の誤差の程度はDランクであり、50〜100km程度の誤差を含むものとしている。一方、「山崎断層の活動によるとも考えられる」としている根拠は、後述するトレンチ調査の結果を踏まえたものである。

尚、地震カタログとしてよく引用される「理科年表」と宇津徳治編「地震の事典」による記載も以下のようにほとんど同内容のもので、「?」付きではあるが山崎断層との関連を一応記述している。

(1)国立天文台(1995)「理科年表 平成8年度版」

868年8月3日(貞観10年7月8日)34.8°N 134.8°E M≧7 播磨・山城:播磨諸郡の官舎、諸定額寺の堂塔ことごとく頽れ倒れた。京都では  垣屋に崩れるものがあった。山崎断層の活動によるものか?

(2)宇津徳治編(1987)「地震の事典」.朝倉書店

868年8月3日(貞観10年7月8日)兵庫県南部・京都

播磨諸郡の官舎、諸定額寺の堂塔ことごとく頽倒、京都では垣屋崩る。山崎断層 から発生したものか?

宇佐美(1996)によると、岡山県は図3−1−3−1図3−1−3−2、に示すようにほとんど被害地震の発生していない県である。また、力武(1996)においても、岡山県は「内陸地震に対して最も安全な県の一つであろう」と評価されている。

B.古記録とその解釈について

以上に示した地震カタログの史料として用いられているものは、「日本三代実録」1)の次のような記述のみである。文部省震災予防評議会編(1941)「増訂大日本地震史料第一巻」P.75より引用すると、次のとおりである。

[三代実録]十五

「秋七月八日己亥、地震動、内外の垣屋、往々頽破、

十五日丙午、播磨國言、今月八日地大震動、諸郡官舎、諸定額寺堂塔、皆盡頽倒」

また、藤田(1982)による引用では、

(貞観十年秋七月)

「八日己亥、地震い、内外の墻屋を動かし、往々頽れ破る。」

「十五日丙午、播磨國言す、今月八日地大いに震い動き、諸郡の官舎、諸定額寺の堂 塔は皆悉く頽れ倒る」

となっている。八日に記述で「地震動」と言うのは京都(山城の国)でのことで、藤田によると、屋敷の外側の垣、内部の目隠しの垣が破壊したものであろう、という程度の被害があったという報告を記録したものである。各郡の郡家および付属する正倉や雑屋が破壊し、官寺の堂塔が倒れていると表現しているので被害は大きかったといえる。ただし、当時の郡庁の所在、定額寺の分布などは不明とされている。

さらに、この地震の後には、以下のように京都での有感地震(被害は記述されていない)が記録されている。

7月: 9日、13日、16日、20日、21日

8月:10日、12日、14日、16日、29日

9月: 7日

10月:27日

11月:27日

12月: 1日、16日

藤田(1982)によると、毎日のように地震があるためか、12月16日には摂津国の広田神、生田神にそれぞれ神階を昇進して閏12月10日に奉幣使を差し遣わして天下安穏を祈念したとの記述がある。その宣令中に、

「(前略)地震の後に小震止まず、因りてトい求むれば・・・」

とあることから、7月8日の播磨の大地震は摂津国(大阪府北部〜兵庫県南東部)でも震動を感じたことを示しているものと解釈している。

従って、7月8日の地震は、播磨の大被害、京都の軽微な被害をもたらす規模の地震であり、その後の京都での有感地震はこの地震の余震を含んでいると解釈できる。

現存する史料から言えるのはここまでである。

1)「日本三代実録」:日本古代の官選の史書。略して<三代実録>ともいう。六国史の第6。50巻。「日本文徳天皇実録」のあとをうけ、清和、陽成、光孝3天皇の命により編纂され、醍醐天皇の901年(延喜1)、藤原時平の手で完成された。六国史中最も詳細でかつ史書としての体裁が整備されているが、現存する写本には脱文や後人転写の際の抄略が多い。平凡社「世界大百科事典」による

C.山崎断層のトレンチ調査

図3−1−4に安藤・岡田(1979)による山崎断層トレンチ調査の結果を示す。それによると

@植物遺体層(ピート層)の14Cによる年代では西暦270年〜1440年の間に動いた。

A切断された地層から出土した土器は7〜8世紀(西暦601〜800年)の須恵器である。

この2点で年代的にも一致することから、868年の播磨に被害をもたらした地震は、山崎断層の活動によるものと推定された。

2)須恵器(すえき):古墳時代から奈良・平安時代以降まで作られた灰黒色の陶質土器。古くは「陶器」とも記し、近年まで祝部土器とも称した。登窯を用い、1000°C以上の高温の還元炎で焼き締めたもの。吸湿性が少なく、硬い。

<参考文献>

宇佐見龍夫(1996):新編 日本被害地震総覧 増補改訂版,東京大学出版会.

国立天文台(1995):理科年表 平成8年度版,丸善.

宇津徳治(1987):地震の事典,朝倉書店.

力武常次(1996):新版 日本の危険地帯−地震と津波−,新潮社.

文部省震災予防評議会編(1941):増訂大日本地震史料,第一巻,75.

藤田和夫(1982):貞観10年の播磨の地震−山崎断層をさぐる.萩原尊禮著「古地震」134−141.

岡田篤正・安藤雅孝・佃 為成(1979):トレンチ掘削による活断層の調査,月刊地球,Vol1,No8,608−615.