3−1−4 大分平野下の活断層についての資料

大分平野下の(活)断層についての研究は、首藤・日高(1971)がボーリング資料をもとに沖積層の地質構造を解析し、Aso−4火砕流堆積物が海側へ約90m落ち込む「別府湾南岸断層」を提唱したことに始まる。その後千田(1987)は、沖積面基底の海側への落ち込みは、海水面低下期の浸食によって形成されたものと判断したが、最近、田中ほか(1988)は、大野川河口でのボーリング資料の解析から、傾斜62°に達する海側落ちの構造を抽出し、この構造を断層と考えている。吉岡ほか(1997)では、このような沖積層の深度の不連続線は、図3−1−3のように示されている。

今回は、委員会の千田委員長からの大量の提供資料を含めて、大分平野の沖積面下のボーリング資料を収集し、それをもとに大分平野下の伏在断層について検討した。結果は、ボーリング位置および断層位置図、沖積層の地質断面図として付図に示した。

大分平野の地下の沖積層については、首藤・日高(1971)、千田(1987)、野井(1987)等で、ボーリング資料解析にもとづく層序区分がなされている。図3−1−11図3−1−12に各文献での層序区分と対比及び代表的な柱状図をまとめた。今回の調査では、これらの見解をふまえ、沖積層基底部の砂礫層中部の泥質 とその中に挟まれるK−Ah火山灰を鍵層として、沖積層の構造を推定した。その結果、大分市の旧海岸線(北方の工場地域埋め立て前の海岸線)よりも南側でK−Ah火山灰が最大20m程度北側に落ちる地層の不連続が見出された。

○大分川より西方の地域

この地層の不連続は、大分川より西ではWNW−ESE方向に延びるトレンドを示す。変位量も大きく(K−Ah火山灰が最大20mの変位を示す)、連続性も良い。このことからみて、この構造は沖積層を変位させている断層と判断される。

この構造の走向は、別府市南部の朝見川断層および今回の調査で存在が示唆されたその東方海域の断層の走向にほぼ一致しており、これらが一連の断層である可能性が考えられる。

○大分川より東方の地域

一方、大分川より東では、地層の不連続はENE−WSW方向に延びるトレンドを示すようにみえるが、K−Ah火山灰の変位量は最大10m程度とやや小さく、連続性もよくない。また、東方の大野川付近ではこの構造は不明瞭になる。

この構造の走向は、本地域の中央構造線の走向とほぼ一致している。後述するように、Ito et al(1998)は、中央構造線の活動域が60万年前以後、従来考えられていた中央構造線の位置(佐賀関から陸上に上がる線)よりも北へ約10q移動したと考えている。今回抽出した地質構造は、彼らが現在最も活動的だとしている地域の延長部にあたっており、この構造の形成は中央構造線の活動と関連している可能性が考えられる。

なお、両地域の地質構造は大分川付近で会合するが、今回収集したボーリング資料の解析のみでは、両地域の地質構造の間の関係については、明確にはできなかった。

○北部の埋立地

大分市北東部の別府湾沿いの埋立地では、Aso−4火山灰が最大20m程度南側に落ちるとみられる地層の不連続性が見出された。この構造は側方への連続性が良くなく、断層運動によって形成されたものかどうかは不明であるが、この地域の東方の海域(大野川河口よりもさらに東)では、前述のように、南落ちの短い断層群が確認されており、2つの地域の構造が関連している可能性も考えられる。