(3)千町無田南縁の断層

<千町無田低地の地形・地質構成と形成史>

千町無田付近の地表地質平面図を図5−11に、平成14年度に実施した低地を横断する測線での反射法弾性波探査結果を取り込んだ地形断面図を図5−12に示す。

今回の調査で実施したボーリング調査により、明らかになった低地の地質構成とその特徴は、次のとおりである(図5−13)。

・低地表層の堆積層の下位には、飯田火砕流堆積物ないし花牟礼山溶岩に属すると推定される角閃石安山岩質の溶岩が出現する。

・千町無田低地の中央やや北よりの地点で掘進されたボーリング(長崎大学の長岡先生による調査;N−1孔)では、表層の堆積層の下位に飯田火砕流堆積物が確認された。この堆積物中には珪藻が含まれており(今回調査での分析による)、水中で堆積したことを示している。このことから、この付近は、飯田火砕流の流下によって、いったん崩平山南方の斜面まで埋積されたと推定される。この埋積時期は、飯田火砕流(随伴する九重第一降下軽石層)の年代から、約4.8万年前である。

・また、この地点では、飯田火砕流堆積物の下位に安山岩質溶岩礫から成る砂礫層が出現する。この堆積物の由来は確定しにくいが、反射法弾性波探査で地下に伏在することが推定される崩平山南麓の扇状地の構成層である可能性がある。

・一方、低地南縁付近では、後述する須久保撓曲付近の群列ボーリング調査において、撓曲構造を挟むごく近接したボーリングで、撓曲の北側(b−4孔)では飯田火砕流堆積物が、南側(b−1孔)では自破砕状の古い溶岩が出現した。これについては、元来上下の関係であった2つの地層が、撓曲下に伏在する断層の活動によって、現在はほぼ同じ標高に定置した可能性が高いと考えられる(詳細は後述)。

・また、撓曲の西方約1kmの地点で掘進したボーリング(a−2孔)でも、表層の堆積層の下に古い溶岩のメンバーと考えられる地層が出現する。この解釈については、後述する。

・これらの基盤を覆う堆積層は、千町無田の各地点で実施したボーリングで、いずれも深度方向におおむね類似した層相変化を示す。今回の調査で得られた年代値を合わせて以下に既述する。

最下部:基盤直上は安山岩質の礫を主体とする砂礫層(層厚4m以下)で覆われる。

砂礫層ないし基盤と上位の縞状シルト層の間には、旧表土が挟まれる。この年代は、約18,000年(暦年代)前である。

下部 :旧表土より上位は、閉塞された湖の中に堆積した地層と考えられる。下部は、年縞様の細かい葉理が発達する粘土ないしシルトから成る。

葉理の一部は、黄色ないし灰色を帯びており、火山灰様であるが、実際に分析した結果では、火山灰の純層は確認できず、いずれも周辺の陸域に分布する古い火山灰層(Aso−4火砕流;鳥栖オレンジ火砕流、Kj−P1、AT火山灰)が再堆積し、混在したものであった(図5−14参照)。下部層の年代は、18,000−17,000年前である。

基盤に近い層準には、葉理が乱れスランプ状の形態を示すところもある。

中部 :この葉理の発達するシルト層は、上位に向かって砂層の挟みが増加し、砂ないし砂礫の優勢な層相に移化する。構成粒子には、飯田火砕流由来の軽石、九重火山由来の溶岩の両方がみられる。この層相は、低地の南縁部の鳴子川に近いところに発達し、低地の北部では明瞭ではない。このことからみて、これらの粗粒層は、鳴子川によってもたらされた河川成の堆積物と推定される。中部層の年代は、17,000−15,000年前である

上部 :各ボーリング孔の深度5〜15mには、明灰色を示す厚さ数10cmの特徴的な粘土層が出現する。この粘土層の少し下からは、しばしば黒ボク土や泥炭質の地層(最大層厚は1m近い)を挟み、これらと水成のシルトないし砂層が互層する層相となる。これは、閉塞された湖の埋積が進み、堆積盆が浅くなって、陸化と沈水を繰り返すようになった堆積環境で形成されたものと推定される。上部層の年代は、15,000年前以後である

撓曲部で掘進したb−3孔における深度−年代曲線(図5−15)をみると、中部から上部にかけて次第に堆積速度が遅くなっていることがわかる。特に、黒ボク土層が厚い部分では、かなり堆積速度が小さい。最上部は、厚い黒ボク土ないし泥炭層となり、現在の地表面を形成している。

この層準の地層中には、K−Ah火山灰や橙色スコリア層(段原降下スコリア相当層)などの火山灰がよく保存されており、時代決定に有効である(図5−13)。特に特徴的なものとして、低地全域でK−Ah火山灰と橙色スコリア層の間に確認される「黒色火山砂層」がある。スコリアを多量に含む河川成の砂層で、非常によく締まっている。含まれるガラスの屈折率の頻度は、1.53付近に集中している。このような性格の火山灰は他にはみられない。性状からみて、鳴子川の上流にあたる大船山からの噴出物と考えられる。、同様に「大船北部溶岩」に伴う噴出物である九重A火山灰と類似するが、時代が異なっている(前述)。

新しい閉塞を示す堆積物

このような千町無田低地を構成する地層のほかにも、低地南縁の段丘面Uの構成層中には、この付近が水域となったことを示す堆積物がみられる(図5−16)。

・松の台岩屑なだれ堆積物の直上の堆積物

この岩屑なだれ堆積物(段丘面Ubを構成)については、既往文献では、約1万年前(conventional age)に噴出した九重A2火山灰がその上にみられないことから、それより新しい地層とされている(鎌田,1997)。しかしながら、黒子川左岸にみられる露頭(m−4地点)では、岩屑なだれ本体を明らかに水成のシルト、砂層が覆っており、さらにその上に褐色ローム層とK−Ah火山灰を挟む黒ボク土層が載っている。調査地域付近では、黒ボク土の形成開始は、一般におおむね1万年前であり、この点からみると、岩屑なだれ堆積物の流下時期は、1万年前よりやや古いことになる。また、水成堆積物の存在は、岩屑なだれ堆積物により谷が閉塞され水域が形成されたことを示唆する。

・飯田火砕流堆積物の浸食面を覆う堆積物

黒子川右岸には、岩屑なだれ堆積物で構成される地形面とほぼ同じ標高で、飯田火砕流の堆積面より5〜10m低い段丘面(段丘面Ua)が分布する。この面は、撓曲変形を受けている部分(後述)を除き、極めて平坦である。ハンドオーガーボーリングで構成層を確認したところ(m−1,m−2地点)、K−Ah火山灰を挟む黒ボク土層、褐色ローム層の下位に、黄白色の火山灰を挟む水成とみられる粘土ないしシルト層が出現し、その下には飯田火砕流本体が出現した。同様の層序は、黒子川左岸にもみられる(m−3地点)。3地点で共通して確認された特徴的な火山灰層※の存在からみて、これらは、同一時期の堆積物と推定される。

水成の粘土〜シルト層の存在、地形面の平坦性からみて、この地形面は、飯田火砕流堆積物が浸食されて形成された面と考えられる。また、上記の岩屑なだれ堆積物の堆積面(段丘面Ub)とほぼ同じ高さであることや被覆層の層序の類似からみて、2つの面の形成時期や要因は共通であると考えてよいと思われる。

これらの堆積物が示す閉塞の年代は、堆積物下位の旧表土層の年代から、13,700年前以後である。

※この火山灰は、閉塞イベントの直後に降下しており、松の台岩屑なだれ堆積物に伴うものである可能性が考えられるが、対比できる可能性がある他の九重火山の噴出物として、A2降下火山灰(10,000年前)<年代は、conventional age>も候補として挙げられる。

<千町無田低地の形成史>

上に述べたデータをもとに千町無田低地の形成史を再構成する。

@飯田火砕流より前の谷地形

約10万年前には、崩平山南麓の扇状地と朝日台溶岩、花牟礼山溶岩のつくる斜面に囲まれた谷が存在したと推定される。現在の鳴子川下流にみられる峡谷に近い地形であったと思われる。

A飯田火砕流による埋積

4.8万年前に南方の九重火山から大量の火砕流(軽石流)堆積物が流下し、この谷を埋積した。堆積物の一部は、先行したフローで形成された水域の中に堆積した。

現在低地の南縁部にみられる飯田火砕流の分布からみて、このときの埋積で形成された地形面は、低地南縁付近で現在よりも数m〜10m程度高かったと推定される。

B再浸食による谷の復活

その後、谷を埋積した飯田火砕流堆積物のかなりの部分は、浸食(鳴子川の谷頭浸食)により消失した。復活した谷の深さは、再埋積直前には、現在の低地面よりも15〜30m低かった考えられる。

この段階のどこかで、須久保撓曲深部の断層の活動により、飯田火砕流堆積物が北落ちに変位し、下位の古い溶岩類と水平方向で接するようになった。

C谷の閉塞による再埋積の開始

現在の低地を構成する地層を堆積させた堆積盆は、飯田火砕流以後に形成された谷が何らかの原因で閉塞されて形成されたものである。閉塞を示す堆積物の年代からみて、閉塞は、次のように2回生じていると考えられる。

1回目:千町無田ボーリングの湖沼堆積物で示される。

堆積物の下限は、暦年代で18,000年前頃(conventional ageで15,000BP)

2回目:露頭としてみられる堰き止め堆積物で示される。

堆積物の下限は、暦年代で13,500年前頃(conventional ageで11,500BP) 

閉塞が生じたとみられる低地の西端付近には、現在は、飯田火砕流堆積物のほかに、松の台岩屑なだれ堆積物が分布している。前述のように、鎌田(1987)では、この岩屑なだれ堆積物の年代は、約1万年前とされており(鎌田,1997)、いずれの閉塞の時期とも年代が一致しない。しかしながら、前述のように、2回目の閉塞によるとみられる堆積物が岩屑なだれ堆積物を直接覆っており、かつ、堆積物を覆う地層の層序からみて、この堆積物の年代は、1万年前よりやや古いと推定される。これらの点からみると、2回めの閉塞イベントは、松の台岩屑なだれ堆積物の流下によって生じたものと考えてよいと思われる。

一方、1回目の閉塞についてみると、この時代と年代がほぼ一致する既知の堆積物で、かつ九重火山北麓に分布する堆積物としては、「寒ノ地獄火砕流堆積物」(conventional ageで15,300BP)がある。しかしながら、この堆積物は、松の台岩屑なだれ堆積物に覆われており、千町無田付近まで分布しているかどうかは確認できていない。したがって、現時点では、閉塞の原因としては、確定できない。

D堆積盆の埋積、現在の低地の形成

このようにして形成された堆積盆内には、当初はもっぱら細粒なシルト〜粘土層が堆積した。堆積速度は、かなり早く4〜5m/1000年であった。その後埋積が進み堆積盆が浅くなるにつれて、1万5千年前以後は、河川(鳴子川)の影響が強くなり、粗粒層の堆積が優勢になった。1万4千年前〜1万2千年前には、かなり広い範囲が陸化し、厚い表土が形成された。その後、さらに陸化と沈水を繰り返しながら埋積が進み、堆積速度は次第に小さくなった(図5−15)。約2,000年前に、現在地表直下にみ−られる黒ボク土層ないし泥炭層の形成が始まり、現在に至っている。

堆積盆の形成、湖成堆積物の堆積開始以後、低地南縁部では、少なくとも4回の北落ちの撓曲ないし断層の活動が生じた(後述)。

1)須久保集落西方地点

この地点では、米軍撮影の空中写真による地形判読で沖積低地内に西北西−東南東方向の北落ち段差が見出された。現在は、圃場整備による地形改変で、この段差は確認できなくなっているが、平成14年度に実施した反射法弾性波探査では、この段差の位置付近で反射面が不連続になっていると判断された(図5−12に示した地質構造の不連続部)。今回の調査では、この2つのデータをふまえ、、段差の位置を挟んで、ボーリング調査を実施し、実際に地層の不連続が生じているかどうかを検討した。

その結果、段差の上がり側と落ち側で、K−Ah火山灰層をはじめとする表層部の地層分布に明瞭な不連続は見出せなかった(図5−17)。これより、この位置には、沖積層を変位させている断層は存在しないと判断した。古い空中写真で見出された北落ちの段差地形は、鳴子川の自然堤防の縁であったと解釈される。

 この調査では、段差の南側で掘進したボーリング(a−2孔)で低地を構成する堆積物の下位には、角礫化した溶岩が出現した。当初は、この地層を松の台岩屑なだれ堆積物に対比し、基盤の地質構造としても、南縁部から一連であると解釈した。しかしながら、前述したような千町無田低地内の他の地点での基盤の地質分布傾向から考えると、この溶岩類が、より古い花牟礼山溶岩や朝日台溶岩のメンバーであり、後述する須久保撓曲と同様に、a−2地点の北側に基盤の地質境界となる断層が存在する可能性が考えられる。現時点では、これ以上のデータは得られていないが、この地点の地質構造解釈については、まだ課題が残されている。

2)須久保集落北方地点

この地点で古い空中写真により見出された北落ちの段差地形は、緩やかにラウンドした形態を示す。今回の調査により、段差の西端付近の水路沿いで、表層付近の地層が北落ちに撓んで変形している露頭が見出された((図5−18図5−19)。露頭で確認できる地層の分布深度の変化は、水平方向距5mに対して60cm程度であまり大きくないが、地層の分布深度が特定の位置(撓曲のヒンジに相当する位置)で変化していること、この位置付近にのみ地層中に共役的な亀裂が発達していること、撓曲を横断する群列ボーリングでも、ヒンジに相当する位置で地層の傾斜が変化することが確認されたことから、この構造は地層堆積時のものではなく、その後の構造運動により形成された撓曲構造であると判断した。以下、この構造を須久保撓曲(新称)と称する。

〇断層の長さ

空中写真で判読された段差は、ほぼ東西方向に連続し、集落東方の低地内に孤立して存在する台地の北縁の段差(低地からの比高約10m)に続く。長さは約800mである。

撓曲露頭の西方では、鳴子川の浸食により変位地形は確認できなくなる。

<ボーリング調査結果>

以下、主に、地質構造の解明のために、この撓曲の露頭を横断して実施した群列ボーリングを実施し、火山灰分析(前出の図2−2−4)、年代測定の結果をもとに、孔間の地層対比を行い((図5−20表5−3表5−4)、撓曲の活動性を検討した(図5−21図5−22図5−23)。以下にその結果をまとめる。

○変位量

・湖成堆積物

群列ボーリングの結果では、撓曲部を挟む湖成堆積物の下限の比高は、6.9m(北落ち)である。この比高をすべて撓曲による変位量と想定すると、堆積物下限の年代は18,000y.B.P.であるから、これ以後の撓曲の上下方向での平均変位速度は、0.38m/千年となる。

・飯田火砕流堆積物

須久撓曲の東方延長部では、この構造の南側(上がり側)に飯田火砕流堆積物から構成される低地からの比高が約10mの台地が存在し、飯田火砕流堆積物の上面は地表から深度3.5m付近にある。これより、この地点では、撓曲活動により飯田火砕流堆積物は、少なくとも6〜7m以上北落ちに変位したことになる。一方、群列ボーリングでは、撓曲の上がり側では、飯田火砕流より古い溶岩類が深度27.5mに、落ち側にあたる北側では飯田火砕流堆積物が深度(b−1孔からの相対標高)38..2mに、それぞれ出現する。また、落ち側では、飯田火砕流堆積物は、少なくとも4m以上の厚さがあると想定される。以上のデータに、湖成堆積物の堆積開始前には、基盤上面が上がり側、落ち側ともに平坦であったと仮定すると、飯田火砕流堆積物の堆積後の変位量は、15m以上と推定される。

以上の検討をもとに、この層の上下方向変位量を、15m以上と考えておく。この年代を5万年前とすると、平均変位速度は、0.30m以上/千年と算出される。

○活動イベントの解析

基盤及び上位の堆積層の層相は、既述のとおりである。コア観察による層相区分に加えて、火山灰分析、14C年代測定、帯磁率測定を行い、これをもとに、各孔間の地層を対比し、同時間面とみなすことができる対比線を認定し、その年代を検討した(表5−1、各対比線の根拠と連続性については、次ページ参照)。このように設定した対比線で各孔間を結ぶと、深度方向に対比線の傾斜が増加する傾向が明瞭に認められる(図5−19表5−2)。これは、現在の千町無田低地が形成されてきた過去1万8千年間に撓曲構造が成長してきたことを示す。また、対比線の傾斜の変化傾向は一定ではなく、特定の層準を挟んで変化が生じている。これより、撓曲の成長は段階的であり、対比線の傾斜変化が生じている層準で撓曲構造が活動したと判断される。

また、撓曲露頭でのクラックの発達状態からも活動時期の情報が得られる。このようにして読み取られた撓曲構造の活動イベントは、時代の新しいものから次のとおりである。

@最新活動イベント(イベントT)

b−5孔とb−3孔の間で橙色スコリアを挟む水成のシルト層が傾斜していることからみて、最新の活動は、5,000年前以後に生じたと推定される。さらに、撓曲構造のヒンジ付近には、撓曲の成長に伴って形成されたと考えられる共役的な亀裂が発達しており、この亀裂は、九重B火山灰層まで達している(図5−19図5−21)。以上の点からみて、撓曲構造の最新活動は、九重B火山灰以後のかなり最近(1,500年前以後)に生じたと考えられる。亀裂に落ち込んだ黒ボク土層の年代からみて、おそらく1,000年前より後であろう。

b−5孔とb−3孔の間の傾斜変化量から推定される撓曲の変位量(上下方向、以下同様)は、60cm程度である。

A対比線C−D間のイベント(イベントU)

撓曲のヒンジ部を挟むb−5孔とb−3孔の間で対比線の傾斜変化が生じている(図5−21)。傾斜変化量から想定される落ち側での層厚の増加(撓曲の変位量)は20cm程度であまり大きくないが、変化が不可逆で累積的であることから、撓曲構造の成長を反映した変化であると判断した。

このイベントの年代は、対比線D、Bの年代から、6,700−5,000年前となる。

B対比線N−I間のイベント(イベントV)

撓曲の落ち側の孔と上がり側の孔の間では、対比線N以深と同I以浅の間で対比線の傾斜変化が生じている(図5−22)。この変化は、落ち側の孔では上がり側に存在しない砂礫層(その下限が対比線MとJ)が付加されていることとしても表われている。両対比線の年代から、このイベントの年代は、11,200−9,600年前となる。両層準間の傾斜変化を最初に形成された地形の段差が徐々に埋積されていく過程と読み取るならば、イベント時期は、この年代の下限頃と判断される。

b−5孔とb−3孔との間の対比線傾斜の変化量からみた撓曲の変位量は、1m弱である。

b−1孔とb−4孔の間では、約2mと2倍になる。

なお、詳細にみると、対比線の傾斜変化が生じている層準をN−L間とK−J間に区分することもできなくはない。このように考えると、この間に2回の活動イベントを認めることになるが、b−1孔と他の孔の対比からは、このような識別は難しいこと、

活動時期として想定される年代幅がかなり狭いことからみると、2回の活動イベントが生じた可能性は低いであろう。

基盤まで掘進したb−1孔とb−4孔の地層対比により、さらに古い活動イベントが認定される可能性がある。両孔の間では、主として帯磁率の変化パターンから認定した対比で傾斜の変化が生じているようにみえる(図5−24)。しかしながら、両孔間の層相変化が大きく、層相も含めた厳密な対比は難しい。よって、ここでは、古い時代の活動については、検討しないこととした。以上の検討結果をまとめると、下表のようになる。表5−0

須久保撓曲の活動イベント

なお、各対比面について設定した年代をもとに孔別の堆積速度の変化を比較すると、

少なくともイベントVの層準では、落ち側と上がり側の堆積速度に相違が生じており(図5−24)、活動イベントの存在を支持する。

○須久保撓曲のまとめ

・東西走向の北落ちの断層で、確認できている長さは約800mである。

・上下方向の平均変位速度0.30m/千年(以上)で、活動度B級の活断層である。

・活動間隔は、4,000〜6,000年で、1回の上下方向変位量は数10cm程度である。

・最新活動時期は、かなり新しく歴史時代(11世紀以降)の可能性がある。

○補足:対比線の認定根拠

前述のように、群列ボーリングの各孔では、共通した堆積環境の変化が読み取れるが、特に次の層準の層相は、側方への連続性がよい。

・段原降下スコリア相当層(対比線B)

・K−Ah火山灰層とそれを挟む旧黒ボク土層(対比線E、F)

・段原降下スコリア相当層とK−Ah火山灰層の間の黒色火山砂(対比線D)

・K−Ah火山灰層下位の黄色火山灰(対比線G)

・各孔の深度10〜15mに出現する厚い黒ボク土層とその下位の明灰色粘土層

(対比線N、Q)

Q以浅のその他の対比線は、上の対比線との関係からほぼ確実に認定できる。砂礫層の下限としたものの中には、撓曲の落ち側でのみ認定できるものもあるが(対比線J、M)、これは撓曲の構造運動を反映したものと判断される。

対比線Qより深い深度のものは、群列ボーリングの両端で基盤まで掘進した孔(b−1、b−4孔)でのみ認定できる。両孔の層相を対比すると、湖成堆積物の下限から2〜3m上位に共通して葉理の乱れた部分が出現する。層厚は、いずれも数10cmである。この部分については、浅部と同様の確実度で対比線が認定できる(対比線g、h)。一方、対比線Qの下数m間は、いずれも河川成の砂・砂礫が優勢であるが、その厚さは、b−4孔で約3.5m、b−1孔で5.5mであり、撓曲の上がり側の方が厚くなっている。この層相境界は、一見かなり明瞭に見えるが、これを同時間面と考えると、対比線Q、g、hを結ぶ線と明らかに斜交することになる。すなわち、対比線Qを堆積時の状態まで水平に戻すと、対比線g、hは、上がり側に向かって傾斜することになる。これは、調査地付近で想定される堆積環境の安定性からみると、異状である。

一方、b−4孔の層相を詳細にみると、河川成堆積物が優勢な部分の下位でも、縞状シルト層の途中にも砂層の挟みがみられ、厚い河川成の砂や砂礫が出現する前から河川の影響があったことが読み取れる。この観察結果と帯磁率の変化パターンをもとに、堆積物に河川の影響が生じ始めた層準として、b−4孔での河川成堆積物の下限(対比線d;深度19.48m)をb−1孔の縞状シルト層中の砂層下限(深度23.42m)に対比した。対比線Qより深い深度の他の対比線についても同様に層相に加えて帯磁率の変化パターンを考慮して認定した。

このように今回認定した対比線の根拠は一定ではない。このため、それをもとに判断した撓曲の活動イベントについても、根拠に違いがあることになる。図 ? では、対比線の根拠を対比線の線種を変えて表現した。

3)高柳集落東方地点

前述のように、千町無田低地の南東縁付近では、池田(1979)が、花牟礼山溶岩類から成る山地の北縁の直線的な崖の位置に活断層を認定している。平成14年度の調査で、この崖の西方延長部で、段丘化した飯田火砕流堆積物の上面に北落ち約5mの段差が生じていることを見出した(図5−25図5−26)。今回の調査では、この段差が生じている崖でトレンチ調査を実施し、北落ちの断層を確認した(図5−27)。これを高柳断層(新称)と称する。

○断層の延長部と長さ

トレンチ地点の西方では、南北に伸びる幅の広い沢の右岸側に沖積低地からの比高が、3m程度の段丘がみられる。断層の西方延長では、この段丘面上に約2m北落ちの段差がみられる。この段差は、断層変位で生じた可能性が高い。これより西方では、トレンチに直接連続するような明瞭な断層変位地形は確認できていない。

一方、東方では、飯田火砕流堆積物から成る台地状の地形の末端を経て、既に述べたように池田(1979)が指摘した断層崖を経て、花牟礼山溶岩から成る山体の北側斜面へ続くようであるが、途中で断層崖としての性格は不明瞭になる。

このような断層トレースを想定すると、その長さは、約2.5kmとなる。

<トレンチ調査結果>

トレンチで確認された地層は、飯田火砕流堆積物とそれを覆うローム層と黒ボク土であり、火山灰も6層確認できた。これらの火山灰層を変位基準として断層の性状、活動性をまとめる。

〇断層の性状

この断層は、北落ちで、飯田火砕流とローム層が接している部分では、主断層の断層面はほぼ鉛直である(図5−28−1図5−28−2)。これより浅部では、断層はフラワー状に分岐し、かつ50°〜70°南傾斜である図5−28−1図5−28−2図5−29−1図5−29−2図5−30)。掘削面でのみかけは逆断層の形態を示す。地表付近では、かなり低角で水平に近い部分もあるが、これは斜面表層のクリープも加わって形成された形態と考えられる。

主断層の山側には、主断層の変位と逆に山側に落ちる断層が存在する。このような断層の存在と断層付近での地層の分布形状からみて、この断層は、本質的に撓曲であり、変形の一部が、局所的にせん断による地層のずれとして表れているものとみてよいと思われる。

また、このような形態からみると、この断層は、圧縮場で形成されたものである可能性が考えられる(断層の東方延長部では、確実なとはいえないが、沢が系統的に左横ずれを示すようにみえる地域もある)。

〇変位量

トレンチ掘削面に測線を設定して計測した、各層の上下方向の変位量とそれから算出した平均変位速度は、次表の通りである。各層の変位には、累積性が認められる。トレンチで確認された断層の延長部の斜面上に比高0.3〜0.4m程度の段差が見出されており、これは、最新の活動による変位とみることができる。当該斜面上での浸食・堆積過程は、この断層による変位を埋積し、平衡状態をもたらすまでには至っていない。

飯田火砕流堆積物の変位量は、トレンチ地点を挟む2地点での、同堆積物上面のっ高度差から、基盤の変位量は、トレンチ地点東方の断層崖<池田(1979が活断層とした地点>の高さから、それぞれ推定した。

表5−5 高柳断層における変位量と平均変位速度

〇活動イベントの解析

複数に分岐した断層が、それぞれ異なる層準の地層に変位を与えていることから、複数の断層活動が読み取れる。以下、主に西側掘削面の状況をもとに断層の活動時期を検討する。

@九重B火山灰以後の活動(イベントT)

主断層(断層a)は、明らかに九重B火山灰に変位を与えている。このことからみて、最新活動時期は、この層の堆積以後(1,500y.B.P.以後)である。詳細にみると、断層による変形に参加している表層の黒ボク土層の年代が、680〜750y.B.P.(AD1270〜1200年、2σの範囲をとると、AD1,010〜1,300年)を示しており(図5−30)、このことから判断すると、西暦11〜12世紀以後の歴史時代に断層活動が生じたことになる。前述したように、このイベントによる地表面の変位が、現在も残存していることからみても、活動時期はかなり新しいと判断される。

主断層の南側にみられる南落ちの変位を示す断層(断層d)も、地表面近くまで地層を変位させており、断層aと同じ時に活動したと考えられる。

なお、このような歴史時代の活動については、古文書等の裏付け資料も探索することが必要であるが、調査地域付近において、そのような資料を期待することは難しいかもしれない。

A九重A火山灰層と橙色スコリア層の間の活動(イベントU)

主断層の北側にみられる分岐した断層(断層b、断層c)は、九重A火山灰層(5,700y.B.P.)を変位させ、橙色スコリア層(段原降下スコリア層相当;5,000年前)を変位させていない。これより、最新活動のひとつ前の断層活動イベントは、5,700〜5,000年前と判断される。

別の面からみると、トレンチに出現した九重A火山灰層は、イベントUの活動に対しては、塑性的な変形をしているが、イベントTの活動に対しては、剛体的な変形をしており、このことからも、この火山灰層が堆積した後に、時期の異なる2回の断層活動が生じたことがわかる。

以上の2回の活動時期は、表5−5に示した累積変位量が変化する層準からも読み取れる。さらに、累積変位量の変化から、より古い時期に活動が生じたことがわかる。

B黒ボク土下限とAT火山灰ガラス濃集層下限の間の活動

黒ボク土層下限(約1万年前)とAT火山灰ガラス濃集層下限(2.6万〜2.9万y.B.P.)では、変位量に相違があり、この間に断層活動が生じたことを示している。この時期は、2.6万ないし2.9万〜約1万年前である。ただし、この時期の断層活動が1回であったことは読み取れない。年代に幅があることからみて、複数回の活動があった可能性も十分考えられる。

以上の活動性評価結果を表5−6にまとめた。

表5−6 高柳断層の活動イベント

○高柳断層のまとめ

・走向はほぼ東西で、北落ちの断層である。長さは、約2.5kmである。

・地表付近では、基本的に撓曲の性格を有する。

・上下方向変位でみると、平均変位速度0.1m/千年ないしそれ以下の、活動度CないしB級下限の活断層である。

・活動間隔は5,000年程度で、1回の変位量は上下方向で20〜40cm程度である。

・最新活動の時期はかなり新しく、地表面の変位が残存しており、歴史時代(11世紀以降)と考えられる。

図5−26 飯田火砕流堆積物上面の段差とトレンチ掘削地点

4)須久保撓曲・高柳断層の西方延長

この2つの活構造の西方延長部では、飯田火砕流堆積物の堆積面より新しい段丘面(段丘面Ua)上に東西方向に延びる北落ちの撓曲構造がみられる(図5−31)。平面的な配置では、2つの活構造の中間付近である。さらに西方では、松の台岩屑なだれ堆積物から成る段丘北端の崖の北側を黒子川が流下している。この段丘崖も北落ちの断層の存在をうかがわせる。鳴子川を再度横断してから西では、前述の筌ノ口T断層の北落ち断層崖に連続する。このような断層トレースを考えると、この部分の長さは、約2.1kmとなる。

〇変位量

・段丘面U

この段丘面の撓曲による変位量は、約1.5mである。前述したように、この面が千町無田の閉塞に伴って形成されたとすると、その形成年代は、1.8万年前である。これより、上下方向の平均変位速度は、0.08m/千年となる。

・基盤(朝日台溶岩)

筌口T断層の断層崖の比高から読み取った基盤の朝日台溶岩の変位量は、約15mである。溶岩の年代は、38万〜42万年前であるから、平均変位速度は、0.04m/千年となる。

ここに示した平均変位速度の値は、高柳断層とほぼ同程度である。また、ここにまとめた千町無田南縁の3つの活構造要素は、互いに近接しており、特に、高柳断層と須久保撓曲は、300m程度しか離れておらず、少なくとも新しい方から2回の断層活動は、ほぼ同時期に生じている。また、いずれも圧縮場で形成された可能性のある構造である。

以上のような、近接した空間的配置、活動性の類似などの点からみて、この3節に示した3つの活構造は、一連の断層と考えてよいと思われる。これらをすべて合わせた長さは、約5kmである。

以上の調査結果をもとに、崩平山南側斜面−千町無田地区の断層評価を表5−7にまとめた。

表5−7 断層評価一覧表(崩平山地溝南縁−千町無田地域)