2−1−2 大分県中部地震

1975年に調査地域の南東部で発生した「大分県中部地震」は、記録が残っている限りで、調査地地域におけるほとんど唯一の被害地震である。この地震による被害、震源位置、発震機構などについては、気象庁の観測データをはじめ、種々の資料があるが、平成14年度報告書では、比較的早期に作成された以下の資料を中心にデータを整理した。

・東京大学地震研究所彙報 第50号,第3冊

・昭和50年度 文部省科学研究費補助金 自然災害特別研究(1) 002040 報告書

「1975年大分県中部地震の活動と被害に関する調査研究報告」

a.地震の規模と震源(図1−7参照)

大分県中部地震は、1975年4月21日午前2時35分に発生したマグニチュード6.4の規模の地震である。この地震に先立ち、1月23日には、調査地南西方の阿蘇カルデラ北部を震央とするマグニチュード6.1の地震が発生している。

地震発生当初に気象庁によって発表された震源の位置は、庄内町の花牟礼山付近とされ(気象庁,1975)、宇佐美(1996)や活断層研究会(1980,1991)も、そのデータを用いている。しかしながら、山科・村井(1975)は、妥当と思われる地下のP波速度分布を想定した上で、震源の再決定を行い、湯布院町湯平温泉の南方、扇山集落のあたりの深さ15km付近を震源とした。久保寺・三浪(1975)も同様の結果を得ている。

後述するように、地震時の被害分布は、この付近を中心として西北西−東南東方向に帯状に延びている。また、村井・松田(1975)は、扇山集落付近で構造物に左横ずれの変形が生じたことを報告しており、これが、この地震における地殻構造運動に起因する可能性のあるほとんど唯一の確実な地盤変形の報告である。このような点からみると、震源位置としては、後者の報告を採用する方がよいと考えられる。

扇山集落で確認された地盤変形については、平成14年度にさらに詳しい調査を実施した。その結果については4章で述べる。

b.被害分布(図1−7

この地震の被害では、死者こそ出なかったものの、負傷者が22人、全壊家屋が58棟に達した。被害地域は大分県内の庄内町、湯布院町、九重町、直入町、野津原町の5町に及び、震源域に最も近い庄内町内山地区ではほとんどの住家が全半壊した。構造物では、やまなみハイウェーにおいて道路法面や盛土の崩壊が各所に発生し、山下池湖畔のホテルでは、玄関付近などの建物の1階部分がつぶれた。平成14年度報告書には、詳しい被害分布図を付図として添付した。

地表踏査の折に現地で聞き込みを行なったところでは、この地震による家屋の揺れや破損は、地元住民には現在も生々しく記憶されているようである。

C.発震機構(図1−8図1−9図1−10参照)

気象庁(1975)では、P波初動分布をもとに横ずれ型の発震機構を求めているが、山科・村井(1975)は、上記のような震源の再決定に伴って発震機構も見直し、若干の横ずれ成分を伴う縦ずれ(正断層)型の解を得ている。その後、Hatanaka and Shimazaki (1987)は再びこの地震の発震機構を見直し、縦ずれ成分を有する左横ずれの解を得た。さらに同論文では、多田(1985)に示された測地データを見直して、中央構造線以北の北部九州は、大局的にみると、中央構造線南部に対して右横ずれの運動をしていることを解明し、調査地域付近の地溝や活断層の分布方向からみて、この地震の発震機構が、測地データから求められる大局的な構造運動で説明できるとしている(前項参照)。

昨年12月にも大分県中部地震の震央の近傍を震央とするM3.4の地震が発生し、この地震も横ずれ成分を伴う断層のずれによって生じている(図1−10)。

なお、歴史資料(豊後国風土記)には、万年山地域で、679年の筑紫国の地震(M

6.5〜7.5)によって、山が崩れ、温泉が出たとする話が掲載されている。このような古い地震や文献に記録のない時代の地震の情報を得るために、歴史・考古遺跡の発掘資料について、各自治体の教育委員会などで調査したが、記録のない遺跡が大部分であり、地震やその痕跡についての情報を得られなかった。