(6)年代測定結果

トレンチで確認された盛土中の割れ目は、築城後に何らかの要因でできたものと考えられ、割れ目が出来る要因としては、1792年の地震が想定される。

島原城の築城が1618〜1625年であり、割れ目の形成が1792年であることから、割れ目に落ち込んだ黒土、及び割れ目中の植物根の年代測定を実施した(図4−67)。

トレンチ北面の盛土直上の腐植土の年代は西暦1450−1650年を示す。島原城の築城時の盛土を覆うことから、1625年の築城の直後のものと推定される。

一方、トレンチ北面の割れ目に落ち込んだ腐植土の年代は、同位体補正値で170±40 yBPであった。暦年補正の値は、暦年校正曲線の関係から、西暦1650−1890年及び1910−1950年という結果となった。この年代測定結果からは、1625年以前の盛土中に、1650年以降の腐植土が落ち込んだことを示しており、この割れ目が1792年に出来たとする推定と矛盾はしない。

さらに、トレンチ南側の割れ目中の松根については、周囲が炭化して失われているものの、根の中心部は松脂が充填しており、この中心部のセルロースの年代を測定した。その結果は同位体補正値で180±40 yBP、暦年補正値が西暦1650−1710、1720−1880、1910−1950年を示した。この年代測定値は、上述したトレンチ北面の割れ目中の腐植土とほぼ同じ結果である。

したがって、割れ目に落ち込んだ腐植土と割れ目中に進入した松根はともに、盛土の築城年代よりも新しいことが示され、1792年の地震で割れ目が形成されたとする考えと矛盾しない(図4−67)。

割れ目が、古文書に示された東西ではなく南北方向である理由としては、現場が南北方向の堀に面していることから、地震動により、石垣全体が側方移動した結果、盛土に南北方向の割れ目ができたものと考えられる。

盛土の造成時の年代を確認する目的で、盛土の−3m盤付近に挟在される腐植土層の年代測定を行った結果は、暦年補正値で西暦880〜1020年を示した(図4−66)。これは、築城年代よりも600〜740年も古い年代を示した。盛土の造成時に用土として古い表土等が混入した可能性がある。