(2)ボーリングSB−2

ボーリング柱状図を図4−46に、コア写真を図4−48に示す。詳細な柱状図とコア写真を巻末資料に示す。

ボーリング地点は、SB−1地点から眉山岩屑なだれ堆積物の流山を挟んだ北側で、孔口標高は8.79mである。

ボーリング調査の目的は、SB−1で阿蘇4火砕流堆積物の上面を示すことが確認された、強い反射面の確認である。SB−2地点付近ではこの反射面は標高−40m付近にあることから、掘削深度は50mを予定していた。しかしながら、阿蘇4火砕流堆積物が確認できなかったため、GL−59mまで掘進したが、地下水の湧出による孔壁崩壊により掘進不能となった。

以下にボーリング地点の層序について示す。

・地表からGL−10.30m(標高−1.51m)間は砂礫主体で、1792年の眉山崩壊に伴う岩屑なだれ堆積物と考えられる。

・GL−10.30〜10.40m(標高−1.51〜−1.61m)間は淘汰の良い厚さ10cmの砂層で、眉山崩壊前の海底堆積物と推定される。

・GL−10.40〜17.10m(標高−1.61〜−8.31m)間は風化変色した礫混じり砂主体の岩屑なだれ堆積物と考えられる。

・GL−17.10〜17.50m(標高−8.31〜−8.71m)間は土石流堆積物である。

・GL−17.50〜18.63m(標高−8.71〜−9.84m)は礫混じりの泥炭で、湿地堆積物と考えられる。この泥炭の放射性炭素年代は暦年で6,420−6,290 ybpである。

・GL−18.63〜35.60m(標高−9.84〜−26.81m)間は砂礫〜礫混じり砂を主体とする岩屑なだれ堆積物である。GL−26.15〜26.44m間に火砕流堆積物を挟在するが、約60°に傾斜しており、岩屑なだれ堆積物に取り込まれたブロックと考えられる。

・GL−35.60〜39.25m(標高−26.81〜−31.26m)間は土石流堆積物とそれを覆う古土壌である。

・GL−40.05〜50.39m(標高−31.26〜−41.60m)間は火砕流堆積物である。GL−48.00m(標高−39.21m)を境として、上方赤色化を示す2枚の火砕流である。

・GL−50.39〜52.14m(標高−41.60〜−43.35m)間は砂・細礫互層からなり、河床堆積物と考えられる。

・GL−52.14〜55.44m(標高−43.35〜46.65m)間は泥炭・シルト互層からなる湿地堆積物で、放射性炭素年代は上部で28ka、下部で31kaを示した。

・GL−55.44〜59.00m(標高−46.65〜−50.21m)間は礫混じり砂からなる土石流堆積物で、風化変色している。

SB−1地点の層序は、SB−1と同様に数回の岩屑なだれ堆積物の間に、湿地堆積物や土石流堆積物を挟在している。SB−1地点の湿地堆積物は、堆積構造や地層の傾斜から、現地性と判断される。

標高−31.26〜−41.60mには、酸化による上方赤色化を示す2層の火砕嶐堆積物がある。一方、標高−17.36〜17.65m間に挟在される厚さ約30cmの火砕流堆積物は、その傾斜から岩屑なだれ堆積物に取り込まれたブロックと考えられる。

標高−43.35〜−46.65mの湿地堆積物は、ほぼ水平な構造を示す泥炭とシルトの互層である。泥炭の放射性炭素年代は31,000〜28,000 yBPを示す。この年代は、SB−1の標高−34.77〜−39.10mにある泥炭ブロックの年代(29,000〜27,000 yBP)とほぼ同じであり、約3万年前には、島原市付近は泥炭が堆積するような環境が存在したことを示している。

また、標高−8.71〜−9.84mの湿地堆積物は、暦年で6,420〜6,290 yBPを示す。この時代は縄文海進に相当し、当時の海水準は有明海対岸の玉の付近で+2.0m付近とされる(長岡他、1997)。湿地堆積物は陸上堆積したことが確実なことから、SB−1地点は約6,300年間に約11m沈降したことになる。これから求めた平均変位速度は1.7m/千年となる。