(2)島原大変

「島原大変」とは、雲仙火山群の溶岩円頂丘の一つである眉山(崩壊前は前山と呼ばれていた)が、1792年(寛政4年)5月21日の夜8時頃に、眉山の一部である天狗山の1/6が突然大崩壊を起こしたもので、崩壊に伴い、島原城下で人家を破壊し多くの死者を出しただけでなく、崩壊土砂が島原湾へ達したために発生した津波により、対岸の熊本県側にも大被害をもたらした。この結果、島原・熊本で死者合計15,000名、家屋流失5,000以上とわが国の火山災害史上最大の被害を出し、「島原大変肥後迷惑」と呼ばれている。

 島原大変の状況は、眉山崩壊の前年、寛政三年(1971年)から同四年にかけて、普賢岳が溶岩流出(新焼溶岩)を伴う噴火活動を行った。一旦、噴火活動が終息したかに見えた寛政四年四月朔日(1792 年5 月21 日)、島原半島の直下で地震が発生し、それと同時に眉山(前山)が崩壊したされる。

眉山崩壊の原因としては、(イ)火山爆発説と(ロ)地震崩壊説(ハ)地滑り説があるが統一的な見解には至っていない。

「島原大変」に関する史料は数多く残されており、その内容についての地質学的解釈が片山(1974)や宮地他(1987)などによってなされている。

片山(1974)は、一連の地震活動に伴って多数の地割れが生じていたことを明らかにし、その原因を眉山の崩壊に伴う地すべりに求めている。

一方、宮地他(1987)は数多い古絵図の中で信憑性の高い幕府報告絵図「島原大変大地図」を検討した(図3−1−22、上図)。この絵図には城下に生じた地割れも記載されている。また、本図には流山と土石流が区別して描かれており、当時“土石流”と“岩屑流”の2つの崩壊様式があったとし、岩屑流が発生した後、地下水が噴出し、土石流が発生したと推論したが、古絵図からは岩屑流の原因を読み取ることは出来ないとしている。また、「島原大変」以前の古絵図に描かれた海中の島々が古い流山であることを明らかにし、大崩壊が「島原大変」より前にも発生していたことを示した(図3−1−22、下図)。

一方、島原半島には、いわゆる別府−島原地溝の一部をなす正断層が多数存在する(雲仙断層群)が、これらと「島原大変」の一連の地震活動との関連について詳細な検討はこれまでなされてこなかった。井村・江越(2000)は『新収日本地震史料』に収められている「島原大変」の記事、特に地割れに関する記述について地形・地質学的に検討し、地表で認められる正断層群との関連について考察した。その結果、一部の地割れについては、(イ)海から山へ(すなわち最大傾斜の方向に)地割れができている、(ロ)城下を数km にもわたって地割れができている等の古文書の記述から、その成因を地すべりに求めるのは困難であるとし、さらに地割れが確認された位置、変位の方向やその量、地割れの性質などについて検討を加え、「島原大変」に関する史料中に記述された地割れのいくつかは、千々石断層と赤松谷断層の2 つの活断層の運動によって生じた変位地形と考えられると結論している。