(1)トレンチの地層構成

トレンチT1の壁面写真とスケッチを図2−3−1−1図2−3−1−2図2−3−1−3に示す。

トレンチで見られる地層は、上位から耕作土・盛土(A層)、新期砂〜砂礫層(B層)、礫層・砂層(C層)、及び花崗閃緑岩基盤(D層)からなる。

・A層−A1(現耕作土及び盛土)

     A2(旧耕作土:灰色砂質シルト、下部に泥炭質腐植土を伴う)

・B層−B1(シルト質砂礫、一部は人工改変か)

B2(礫層、砂層で下位の地層を削り込み、不整合に覆う、一部ラミナが発達)

B3(砂礫、下位の地層B7を削り込む、N面の東端にのみ分布)

B4(礫混じりの砂、ラミナがある)

B5(礫混じりの砂、傾斜したラミナがある)

B6(C1の崖下の乱雑な砂礫、傾斜したラミナがある)

B7(花崗質中砂〜粗砂、ラミナが変形してうねる、下部には砂礫が堆積)

B7'(乱雑な礫質堆積物、一部ラミナが湾曲)

・C層−C1〜C4(段丘礫層、花崗閃緑岩質の亜円礫〜亜角礫、随所に風化礫を含む)

C−S1〜S4(段丘礫層中のシルト、中細砂または粗砂の挟み)

     C1'(C1層を覆う乱雑な礫層)

・D層−(カタクラサイト化した花崗閃緑岩、本来の粒状組織が不明瞭で黒色部が混じる)

 

トレンチのN面とS面とではB4,5,6,7の位置と形状が多少異なり、両面の対比は大まかである。このうち、N面はS面よりも層序を組み立てることが容易であるため、以下N面を中心に述べる。 

A2は、圃場整備に伴って、ほぼ一定の厚さで階段状に土砂を敷きならした人工層と思われる。これは、A2の下部に伴う泥炭質腐植土が一様ではなく、不連続に分布することから人為的な地層と考えられた。人工改変はB1の一部にまで及んでいると思われる(S面で一部A2と層序関係が逆転するため)。

B2は下位の砂、礫層を不整合に覆い、一部ラミナが発達した自然な堆積物である。B3はB7を侵食しているがその他との関係が不明である。B5は傾斜が大きく、先端部は褐色シルト質で乱れており、B4との境界は不規則な凸状をなす。また、B4との層序関係は同時か一部はB4に覆われる。このB4はB5の攪乱物質が散乱して堆積したものと見られる。これらの点から、B5はもともとC1よりも高い位置にあったが、C1の斜面下にブロック状に崩落し、B4やB6に衝突するように堆積したものと想定される。B6は花崗岩質の礫を主体とし、風化礫も含む点でC層の礫層と共通性が高く、傾斜したラミナが特徴的である。このことから、B6はC1の崖から崩落した礫が再堆積したものと考えられる。B7はラミナの変形から、堆積後にB6の荷重や断層活動によって変形したことが考えられる。B7’はC1と共通の礫でラミナが変形している(特にS面)ことから、C1の礫が崖下に崩落・再堆積したものと考えられる。

これらのB7’、B6はC層の崖部から礫層の一部が崩落・堆積した可能性があり、B5とB7は層相の類似性から、本来同一の地層だった可能性があり、断層活動によって再配置したものと考えられる。

B層はN面とS面では層相が異なり、正確な対比が困難である。例えばS面のB4’やB5’はS面では基本的に砂質層だが、かなりの粘土分が混在し、ポケット状の構造も見られる(S面のB4’のうち、座標13〜14/−1付近)ことから、これらもN面と同様の崩落堆積物であることが示唆される。S面のB6a〜cは、N面のB6のように礫の卓越する地層ではないが、層序関係から、B6に対応する可能性がある。N面に見られる礫質な堆積物B6はN面近傍の局所的な崩壊堆積物でS面には発達しなかったと考えられる。

C層のうち、C1、C2、C3、C4は礫が東に傾斜して配列する。一方、C1’は全体に乱雑で明瞭な堆積構造がなく、C1が崩落して崖下に堆積したプリズム堆積物と見られる。C層には風化(マサ化)した花崗閃緑岩礫が含まれ、特にC2の上部には風化礫が多い。C1〜C4には中砂〜シルト(C−S1〜S4)を挟む。このうち、C−S2には砂とシルトが乱れて堆積している。C−S3には縦の亀裂があり(後述のK)、砂や土壌に充填されている。C−S4はラミナが良く発達している(特にS面)。

地層の14C年代は、A2下部にある腐植土が820±70 yBP(A2はほぼこの年代)、B2に含まれるパッチ状の土壌粒子が1,930±40 yBP、すなわち弥生時代(よって、B2の年代はこれ以降で、かつ、820±70 yBP以前)、砂層B7中の炭化物が1,2150±40 yBP(B7はほぼこの年代)、C−S3の亀裂中に入り込んだ土壌が22,220±80 yBP(亀裂の形成はこれ以降)である。その他B層、C1などに多数のシミ状の炭化物小片があったが、小さいため測定不能であった。

また、S面のA2からは中世(11世紀末〜16世紀代)の土器片が出土した。これはA2下部の14C年代(820±70 yBP)と一致する。このことからA2は過去の圃場整備の際、中世の土壌を用いて水田を造成したと考えられる。