2−2 大磯丘陵の完新世段丘に関する文献調査

大磯丘陵南西部では3〜4段の完新世段丘が発達し、その高度は房総半島南端とともに日本で最も高く、地震性地殻変動による隆起が著しい地域である。本地域に関する文献で示された露頭及びボーリング資料の位置図を図2−16に示す。

米倉ほか(1968)(図2−17)では、本地域の完新世段丘を中村原面、前川面、押切面の3段に区分している。中村原面の離水時期に関しては、中村原面の構成層である下原貝層中から得た14C年代と層位関係から約5000年〜7000年前としている。また、中村原面の分布高度は国府津付近が最も高く、東に向かって低くなることを指摘している。隆起速度に関しては、中村原面の堆積面の上限高度を約26m、離水年代を6000年前と仮定して、3m/kyと算出している。前川面、押切面の離水年代に関する具体的なデータは示されていない。

遠藤ほか(1979)(図2−18)は、中村川沿いにおいて、貝群集、有孔虫、花粉などの分析を行い、同地域の古地理の変遷について述べている。中村原面の離水時期に関しては、同面上にのる完新世テフラとの関係から、約5000年前後としている。前川面の離水時期は砂沢ラピリ層(Zu)より古く、4000〜4500年前後としている。また、押切面(米倉ほか,1968)を押切段丘面T、押切段丘面Uに細分しているが、それらの分布は中村川沿いに限られ、大部分は河成面と考えられる。押切面(押切段丘面T)の離水時期に関しては、完新世テフラとの関係から、S−24(弥生時代中期〜16世紀:上本・上杉,1996)より古いと推定している。

松島(1979)は、中村原面の離水時期に関して、押切川沿いに形成された古中村湾の内湾性堆積物中の貝化石の14C年代とアカホヤ火山灰(K−Ah)により約6500〜6300年前としている。

熊木・市川(1981)(図2−19)は、本地域の完新世段丘の空中写真判読を行い、米倉ほか(1968)に従って、中村原面、前川面、押切面の3段に区分している。また、ボーリング資料の解析、露頭調査を行い、中村原面構成層の海成層上限付近の14C年代が約6900年前、約6300年前であるとしている。さらに、中村原面と前川面の旧汀線高度分布投影図から、両面の旧汀線高度が東に向かって低くなること、国府津・松田断層付近では逆に西に向かって低くなることが示されている。

松島(1982)は、中村原面構成層の海成層上限付近の海抜20mと、足柄平野のボーリングコアの海抜−1.54〜−1.84mにアカホヤ火山灰(K−Ah)を認め(図2−20)、過去約6300年間に約22mの高度差が生じていることを示し、国府津・松田断層の平均変位速度を3.4m/kyとしている。

太田ほか(1982)は、本地域の完新世段丘の空中写真判読を行い、中村原面、前川面、押切面の旧汀線高度分布を示している(図2−21)。中村原面、前川面の旧汀線高度が国府津付近より西側では、国府津・松田断層に向かって高度を下げていることから、同断層の活動が影響を与えているとしている。前川面の形成年代を示すデータは得られておらず、押切面の離水年代に関しては、14C年代と出土した土器の年代から少なくとも約1000〜1200年前としている(図2−22)。

松田(1985)は、押切面上に存在する寺院、墓の年代が鎌倉時代であることから、押切面の離水時期はそれ以前と考えている。

関東第四紀研究会(1987)は、遠藤ほか(1979)の記載(押切段丘面T構成層の礫層中に土師器の破片が含まれている)によると、押切段丘面Tの離水時期は5世紀頃から室町時代頃になるとしている。

以上のように、中村原面に関しては豊富な資料があり、離水年代が約6300年(松島,1982)であることが明らかである。前川面及び押切面に関しては、国府津・松田断層の隆起によって形成されたと考えられているが、構成層や年代に関する十分なデータが得られていないことから、詳細は不明である。

また、既存のボーリング資料を収集し若干の検討を行った。小田原市(1985)では、前川面上に位置する前羽小学校でボーリング調査(計5孔)を行っている(図2−23)。深度6〜7m以深が基盤の砂岩、泥岩層で、その上位が段丘構成層にあたる。前川面構成層の認定は困難であるが、柱状図を見る限り、段丘構成層は砂が主体で、年代測定試料として有用な貝化石、材に関する記載は認められない。このほかに、森戸川沿いのボーリング資料(図2−24)も集まりつつあるが十分とは言えず、大磯丘陵南西部地域も含めたボーリング資料の収集及びその解析の充実が必要である。