(1)地質概観−足柄平野・関東山地周辺地域のテクトニクス

秦野断層・渋沢断層は,丹沢山地の南東縁,丹沢山地と大磯丘陵の間に形成された狭小な秦野盆地に位置する(図1−2).渋沢断層は秦野盆地と大磯丘陵を境する東西方向に伸びる北側低下の逆断層であり,秦野断層は秦野盆地内に北東方向に伸びる南側低下の逆断層であ(宮内ほか,1996).両断層はフィリピン海プレートと本州側のプレートの境界部と推定される国府−松田断層に近接し,主要な運動は伊豆半島を含むフィリピン海プレートの運動に大きく支配されていると考えられる.したがって,はじめに秦野断層・渋沢断層の性格や活動性について理解するために,周辺地域の地質やテクトニクスについて,やや広域的に述べる.

 西南日本で島弧の伸びと平行して発達する地質の帯状構造は,伊豆半島の北方で大きく屈曲する.この屈曲構造は日本海の形成時期と同時期に形成されたもので (Kano et al., 1990など),1500万年以降,伊豆−小笠原弧の多重衝突によって形成されてきた と考えられている (天野,1986;Soh, 1986など).最も古い地塊の衝突は,神奈川県西部地域では丹沢山地の衝突であり,現在,四万十帯と丹沢山地の境界を画する藤の木─愛川構造線が当時の衝突境界をなしていたと推定されている.藤の木−愛川構造線は,広域的には三浦半島中部から房総半島の葉山−嶺岡帯に連続するもので,かつてのプレート境界と考えられている (図1−2図1−3,松田,1989;平・清川,1998).かつての沈み込みにともなった断層と直接重複しているかどうかは明らかではないが,この断層帯のいくつかのセグメントは,活断層となっている (活断層研究会,1991).

藤の木−愛川構造線の南側に位置する丹沢山地には火山噴出岩を主体とする丹沢層群が分布する (Mikami, 1961;1962;杉山ほか,1997;青池ほか,1997など).丹沢山地の中央部には大規模なトーナル岩が貫入し,全体としては南側で急傾斜の非対称なドーム状の構造をなしている.丹沢層群の層厚は10kmにおよび,産出する化石から前期〜後期中新世に形成された地層である.岩石学的な類似性から伊豆−小笠原弧で形成された地層と考えられている (平・清川,1998).

丹沢層群の南端は神縄断層で境され,その南方には足柄層群 (今永,1978;足柄団研グループ,1986など) が分布する.足柄層群は丹沢山地と伊豆半島の間に形成された海底のトラフを充填した堆積物で (Ito, 1985),層厚は4500に達する.主として砂岩泥岩互層・礫岩からなり,海成微化石から前期〜中期更新世の地質年代が推定されている(Hushon and Kitazato, 1984).神縄断層は,北側の丹沢層群と南側の足柄層群を境する東西に伸びる南側低下の逆断層である.神縄断層は丹沢層群と足柄層群を数変位させた断層であるが,狩野 (1988) によれば中期更新世中期に活動を停止している.

大磯丘陵は丹沢山地の南にある孤立した丘陵をなし,中部更新統が広く分布する.新第三系はこれらの基盤として断片的に露出し,丘陵東部には中〜上部中新統の高麗山層群と大磯層が,西部では丹沢層群のほか足柄層群が北西−南東方向に狭小に分布する.

図1−1.調査範囲(基図は活断層研究会,1991による)

図1−2.南関東西部の地質概略図(杉山ほか,1997のよる)

大磯丘陵の西縁には,活断層である国府津−松田断層 (太田ほか,1982;Yamazaki, 1992など) が位置する.北東−南西走向の国府津−松田断層は,東西走向の松田北断層(活断層研究会,1991) ・日向断層 (徐,1995) に連続し,足柄平野の北縁を限っている.足柄平野は500以上の第四紀層が堆積した沈降域であり,大磯丘陵は第四紀初期から中期の厚い沈降域で堆積した地層が標高200前後の丘陵地をなすまでに隆起している.これは国府津−松田断層の活動によって形成されたもので,場所や基準面によって異なるが上下成分で3〜4/年の平均変位速度が推定されている (町田・森山,1968;Kaneko,1971;松島,1980;1982;山崎,1984;Yamazaki, 1992;水野ほか,1995).国府津−松田断層は北東もしくは北に傾斜した逆断層であり,反射法地震探査によって地下1前後で低角な主断層から立ち上がる高角の逆断層が推定されている (笠原ほか,1991).この断層はフィリピン海プレートと本州側プレートの境界とされ,相模トラフに延長される大規模な断層である.

丹沢山地の南東縁には大磯丘陵との間に小規模な盆地である秦野盆地が形成されている.秦野盆地と大磯丘陵とを隔て,秦野盆地の南縁をほぼ東西方向に規制するのが,渋沢断層である.渋沢断層そのものは,地表で確認される断層の長さは約6と短いものの,南関東の第四紀の地殻変動を考える上で重要な位置を占めている.南関東の第四紀の垂直変動を概観すると,大磯丘陵でとりわけ大きな隆起運動が認められる (町田,1973など).下末吉面 (約13万年前) の大磯丘陵における隆起量は100前後に達し,三浦半島の先端部がこれに次ぎ,あたかもフィリピン海プレートとの境界部との距離が増大するにしたがって減少している.渋沢断層の延長方向にあたる秦野−横浜構造線 (町田,1973)周辺では,この差が顕著であり,この線を境に南側の北方ないし北西方向への傾動運動が終わっている.同様の傾向は,海成沖積面頂面の高度分布にも顕著に現れている (町田,1973).渋沢断層は,こうしたヒンジラインの直上に位置しており,この断層の形成が,フィリピン海プレートと本州側プレートの相互作用に深く結びついていることを示唆している.

足柄平野から関東山地にかけては,伊豆−小笠原弧と本州の衝突により,中期中新世から丹沢山地・伊豆半島などが,本州弧に付加してきた (図1−3).こうした一連のテクトニクスによって,藤木−愛川構造線から神縄断層そして,国府津−松田へとプレート境界も漸次南方に移動してきた.こうした変形フロントの前方 (南方) への移動は,伊豆半島を越えて,より南方に移動しているという説が提示されている.近年の南海トラフ東縁部の海底地殻構造探査により,銭洲海嶺南縁で南海トラフにほぼ平行する大規模な逆断層が見出され (Taira et al., Le Pichon et al., 1996),ここでは,フィリピン海プレートと本州側プレートの収束成分の少なからぬ部分が消費されている可能性がある.