4−6 追分層および萌別層(Ow)

 上記の硬質頁岩から漸移する珪藻質泥岩を主体とする地層は、追分町付近を模式地として追分層と呼ばれたが、「追分」図幅(松野・秦、1960)では一部に異相として礫岩・砂岩がはさまれることから、「由仁層」の名称が採用された。その後、「夕張」図幅および「岩見沢」図幅では再び追分層が使用されており(佐々ほか、1964;松野ほか、1964)、「追分」図幅(嶮淵川沿い)では滝の上層相当層を由仁層の一部にしておりこれは明らかに誤りであることなどから、ここでは追分層の名称を採用する。ただし、追分層は由仁町の由仁町の夕張川沿いの地域を模式地として提唱されているが、ここではそれとは別に馬追丘陵中主部ブロックのシーケヌフチ川入口付近からコムカラ峠(道横断自動車道路切り割り)を準模式ルートとして設定し説明する(岡、1998)。

 準模式ルート付近の馬追丘陵中主部ブロックでは追分層は層厚が1、100mで岩相的に下部と上部に分けられる。追分層下部は層厚800mで珪藻質の泥岩〜砂質泥岩を主体とするが、上部へ行くにつれ次第に粗粒化し、最上部では一部で泥質となる極細〜細粒砂岩となっている(コムカラ峠R−3ルートおよび基礎試錐「馬追」南の土取場R−3ルートの各起点付近)。全体的に塊状で、上部の砂質部では生物かく乱作用を受けたり、貝化石を含む(巻末資料1)。追分層上部は準模式ルート(R−5)では層厚300m+で、下位より i )砂岩・礫岩互層(厚さ95m)→ ii )生物かく乱細粒砂岩相(同55m+)→ iii )板状泥岩・細粒砂岩相(50m+)→ iv )斜交葉理砂礫岩相(15m+)の順で構成されている。 i は上方級化砂岩・礫岩の集積体になつており、泥質生痕に富む極細〜細粒砂岩を頻繁にはさみ、礫は主に夕張山地・日高山脈起源の先新第三系岩である。 ii は一般に塊状であるが、淘汰良好な細粒砂岩・シルト質火山灰・泥岩の薄層をはさみ、植物破片に富む. iii では両構成岩相はときに細互層をなし、11層準でスランプ褶曲層(軸面転倒西〜南西)を形づくる。 iv は礫質相と砂質相がトラフ型斜交葉理を構成し、礫主は i のものに硬質頁岩など新第三系泥岩礫を含むのが特徴である。これらのうち、 i ・ ii 堆積学的には浅海(陸棚)の堆積物、特に i は三角州の前縁の海底扇状地的堆積環境が想定できる。 ii は内湾(ラグーン)、 iv は沿岸の河川(網状河川)の堆積物とみなされ、岩見沢層〜追分層下部において深海から次第に浅海へ移行し、それに引き続き追分層の上部で陸域化が進行する様子が読み取れる(巻末資料1)。R−2ルート(信 田温泉南側の嶮淵川沿い)では厚さ70mの部分が泉郷断層に接して観察できるが、上記の iii と iv が互層している(巻末資料1)。R−3およびR−4ルートは一部未露出の部分を含む厚さ260mの一連の露頭であり、追分層下部最上部から上記の i ・ ii が順次観察でき、 iii は不明確であるが、 iv は90m+で観察できる(巻末資料1)。

 このような追分層の分布は準模式ルートの南方、自衛隊駐屯地付近にも追跡でき、断片的な露頭から上記のような岩相を確認でき、「早来」図幅では萌別層と呼ばれている(松野・石田、1960)。

 岩見沢−栗沢丘陵および馬追丘陵北ブロックにも広く分布しており、特に栗沢の加茂川−栗丘付近および長沼市街東方台地の各砂利採取場では、級化礫岩・砂岩層の集積体(陸棚域の海底扇状地堆積物)がレンズ状に厚さ最大150m±・600m±で発達しているのが観察できる。なお、「恵庭」図幅では本層下部について「長沼層(泥岩)」と呼ばれている(長尾ほか、1959)。

 椿原(1990)は栗沢の加茂川付近を中心に追分層中部の珪藻化石を検討し、Denticulopsis dimorpha帯(Koizumi、1985)を示すとし、その年代を後期中新世の前半、追分層全体の年代は中期中新世後半〜後期更新世と判断している。