4−10 段丘3堆積物(T3)

 岩見沢−栗沢丘陵では、本堆積物は従来、「茂世丑層」の一部として取り扱われてきた(松野ほか、1964;佐々ほか、1964;小峰・八幡、1999)。岩見沢丘陵では露頭がほとんどないことから、その詳細は不明であるが、栗沢丘陵では多くの露頭(k−1〜13、k−16、−17、−19地点)があり、層序などの詳細は次のように解明できた(図7)。泥炭をはさむ暗青灰色シルト層(T3m)と河成および海成の砂礫層(T3s)からなる。これらは泥炭・砂礫をはさむ灰色〜灰白色シルト・粘土層(TCm)とSpfa−1の再堆積物を含む粘土層(TCv)に覆われる。基底部は砂礫からなり新第三系を不整合に覆う(k−3地点)。本堆積物が露頭で連続的に観察できるのはk−1地点である。ここでは下位より有機質シルト層(T3m)が斜交葉理の顕著な砂礫層(T3s)に覆われる厚さ15mあまりの層序が確認できる。T3sには巣穴状の生痕が認められ、海成とみられる。k−1地点の南西側には栗沢工業団地関連の地盤ボーリング資料が多数存在する。それらにもとづく断面解析の結果(図19)によれば、T3mは山側(東方)に厚くなり、一方T3sは低地側(西方)で極めて厚くなっており、海進期のバリア−ラグ−システムを連想させる。さらに、海成のT3sの最高分布高度は標高30m±であり、これより高い所では河川成の礫層がT3mや新第三系を直接覆うようになる(k−2、−3−、−17地点)。すなわち、段丘3面(t3)沿い〜山側の河成面と低地側の海成面の複合した地形面と考えられる。k−1地点の花粉分析によれば、上位に向かってトウヒ属が低率化し、冷温帯多様化しているという特徴が認められ(図8、巻末資料8)、寒冷から温暖への傾向が認められる。T3m中の泥炭の木片(試料番号kr−10cで図8のk1−p10と同位置)の14C(AMS)年代は>47、150y.B.P.を示す(巻末資料7)。さらに、TCvについては、小峰・八幡(1999)がk−4地点において、その下部にはさまれる泥炭の14C年代(AMS)として45、010±2、940y.B.P.を報告している。なお、栗沢丘陵の本堆積物の理解をさらに深めるのには、小峰・八幡(1999)の粘土資源調査報告が大いに参考になる。

 岩見沢丘陵での既存ボーリング資料の断面解析結果(図1718)によれば、段丘3(t3)面では新第三系を基底礫層をもって覆う砂・シルト層(礫層をはさむ)とそれを覆う火山灰の薄層に富む粘土・シルト・泥炭・有機質シルト層の存在が広く確認できる。これらはそれぞれ、栗沢丘陵のT3 とTCに相当する地層と判断される。T3の比較的淘汰のよい砂層の上限高度は30〜40m程度であり、栗沢地域のT3sと概ね一致する。後述するように、本調査関連の緑が丘でのボーリング調査では本堆積物基底までの層序が明らかになった。T3を覆う堆積物(TC)の最下部にはToya(90〜120ka)とAafa−4(厚真降下火山灰4)がはさまれており、T3は最終間氷期(酸素同位体ステージ5e:125ka前後)の堆積物とみなされる。

 馬追丘陵北部では、本堆積物は古くは「野幌層」・「広島砂礫層」の一部あるいは「茂世丑層」・「段丘堆積層t2」の一部として取り扱われた(長尾ほか、1959;佐々ほか、1964)。その後、丘陵北端部付近のものは北長沼段丘堆積物と呼ばれたことがあるが(松下、1971)、本堆積物に相当するものは厳密には、北長沼段丘堆積物のうち、北長沼市街付近のものを除き、崖錐堆積物の一部を付け加えたものである。その後、長沼市街東方台地の砂利採取場の露頭に関連して、赤松(1987;1988)および赤松・鈴木(1992)が「馬追層」、「山根川層」および「北長沼層」を提唱している。それらと本堆積物との関連について、以下で言及する。この砂利採取場の露頭について埋め戻しにより再び地下に隠れた部分を含めて、本調査関連ではほぼ東西方向に配列するn−6〜10地点で柱状図を作成したが、これらの柱状図に別の研究者の報告(近藤・五十嵐、1987;能條・高田、2000)により公表されているそれを付加して対比図を作成してまとめると(図9)、次のようになる。下位より i )砂礫岩層、 ii )海成泥岩・細粒砂岩層、 iii )夾泥炭の泥・砂・砂礫層、 iv )火山灰質泥・砂層の順に重なる層序が明らかである(写真3)。このうち、 i は西へ急傾斜(80〜90°)する厚さ数10cm〜数m単位の土石流様堆積相ときに泥岩・砂岩互層をともなう地層で、これは明らかに後期中新世の追分層である。 ii は層厚6m前後で、 i とは顕著な斜交不整合関係で重なり、基底礫層に始まり、生物かく乱作用を受けた泥質岩(薄層理あり)主体の地層で、様子としては近藤・五十嵐(1987)のUM−II〜 IV 、赤松(1987)および赤松・鈴木(1992)の含貝化石層とされる山根川層の一部に相当するように思われる。ただし、n−7地点では貝化石は確認できなかった。赤松(1987)は追分層(川端層として取り扱っている)と山根川層の間にもう一つの含貝化石層である馬追層を提唱しており、それとも考えられる。最近、能條・高田(2000)はn−6地点の南250m付近の砂利採掘現場でこの ii 層および iii 層下部に相当する部分(一部礫相をはさむ含貝化石砂岩・泥岩)を馬追層とみなしているが、山根川層の存在は疑問視している。赤松らが調査した露頭(写真4)は現在は砂利採取が進行したため、現在では露頭そのものが消失しているので、特に馬追層の実態は確かめようがないので、ここでは混乱を防ぐために馬追層は使用しない。 iii は層厚が10mあまりで、全体として泥炭〜腐植質泥を頻繁にはさむ火山灰質の砂・泥相よりなり、レンズ状の砂礫層と互層しており、湿地・河川的環境の堆積物とみなされる。後の長沼地質断面解析の項で説明するように、馬追団体研究会(1983、1987)の本郷層に対比できる。 iv は層厚が約5mで、表層の腐植土(黒ボク)と陸成の火山灰質の泥・砂相(軽石にとむ)より構成され、主として支笏火山噴出物(Spfa1、Spfl)起源の軽石を再堆積で豊富に含んでいる。

 砂利採取場付近から北方で北長沼段丘堆積物とされたものは、その説明(松下、1971)に従えば、上記の iii および iv を合わせたものに相当すると思われ、n−1地点で観察できる(巻末資料1)。一方、その付近から南方ではn−11〜20、−25、n−27〜30地点で観察したが(巻末資料1)、概ね iii および iv に相当し、北長沼段丘堆積物に対比が可能であるが、n−15および16地点では青灰色を呈する生痕(サンドパイプ)の極めて多い砂質泥相が夾む泥炭相の下位に厚さ3m+で存在しており、このような部分はラグーン的な堆積物で、 ii に対比できる。山田(1983)は上記地点の中のn−13地点(N−1)およびn−18地点(N−2、−3)で iii ・ iv 相当部の花粉分析を行い、上位に向かって針広混交林→亜寒帯針葉樹林帯→森林ツンドラに植生が変化し、気候が冷涼・湿潤から寒冷・乾燥気候へと変化したことを示し、Spfa−1降下前の最終間氷期以降の寒冷化現象を示すとし、馬追丘陵南端部の本郷層(馬追団体研究会、1983)に対比した。

 馬追丘陵中部および南部では新期の火山灰に厚く覆われており、露頭観察ができた所は泉郷の信田温泉北側台地のc−1および4地点と少ない(巻末資料1)。特にc−4地点では支笏・恵庭火山噴出物およびローム層の下位に厚さ11m+の砂礫・泥相の存在が確かめられる。道横断自動車道路地質断面(図15)では後で述べるように、ボーリング柱状図OT−c−99〜106(巻末資料2)が段丘3面に対応する。断面図および柱状図中のH5が長沼市街東方砂利採取場の ii に相当し、H6が iii (本郷層)に相当すると判断される。

 早来町源武(h−19地点)では巻末資料1に示すように火山灰対比などから、約55mの高さの露頭の下半部はほぼ本郷層に相当する地層である。

 以上のことから、本堆積物のうち岩見沢−栗沢丘陵のT3および馬追丘陵の ii は馬追丘陵南端部の厚真層(馬追団体研究会、1983)または野幌丘陵のもみじ台層(矢野、1983)に対比が可能で、同じくTCおよび iii ・ iv は本郷層(馬追団体研究会、1983)または小野幌層(北川ほか、1976;1979)に対比が可能である。また、岡(1998)はこのような最終間氷期から同氷期前半にかけての地層について露頭・地盤・水井戸ボーリング資料の総合的な解析・検討から東千歳層を提唱しているが、それにはコムカラ峠の段丘1堆積物が含まれており、再吟味が必要となっている。

 写真3 長沼市街東方砂利採取場(n−7地点)の急傾斜する追分層とその上位の段丘3堆積物(右はその拡大写真)

 写真4 長沼市街東方砂利採取場の以前の露頭に見られた“山根川層(赤松、1987)”と含貝化石群(n−5地点、右に拡大写真を示す)