(2)陸域主要文献の概要

甲楽城断層の研究は、小川(1906)に始まり、山崎・多田(1927)、市川(1929)、辻村(1927)、岡山(1931,1956)、塚野(1953,1969)、桑原(1968,1970)、北陸第四紀グル ープ(1969)、松田、岡田(1971)、藤田(1974)、村井、金子(1975)日本原子力発電株式会社(1979)、活断層研究会(1980,1991)、地質調査所(1994)、山本(1996)などによって研究されている。

干飯崎から大谷付近までの海岸には、海から最大約400mの高さで聳える直線状急崖がほぼ南東方向に連続して延び、崖下には岩礁が散在している。辻村(1927)、山崎、多田(1927)は、急崖を断層と認定し、塚野(1953)は「甲楽城断層」と命名した。

この断層崖については、小川(1906)が最初に注目し、干飯崎〜大谷間の直線状の海岸、海岸線からの急峻な斜面は断層崖の形状を備えていると指摘とし、断層崖から東側は隆起、西側は若狭湾の沈水地形となっているとし、「敦賀湾東岸の断層崖」と、岡山(1956)もこの海岸を断層海岸とし、「敦賀湾断層海岸」と呼んだ。

山崎・多田(1927)は、”甲楽城断層崖”は崖上に、風隙(注*)が存在することから更新世後期あるいは完新世に入って断層運動が反復して起こり、相対的に東側が隆起し、西側が陥没して敦賀湾や敦賀平野が形成された。さらに断層南端では撓曲に移行すると解釈している。図から判読すると、その長さは約20kmである。

(注*)過去に河川が流れていたことを示す山稜線上のくぼみ、水隙の対語。かつての水隙が河川争奪による河系の変化により、現在の水系が見られなくなったもの。風隙には旧河床堆積物が見られ、現在の水流との間にには大きな高度差がある(地形学辞典)。

市川(1929)は、丹生山地西岸の越前岬付近の海岸で新旧3段の段丘を認めた。そ して、

(a)最低位の第1段丘が越前町米ノ浦(干飯崎)より南には存在しないこと、

(b)米ノ浦より北の谷が上流で緩く、下流で深い渓谷をなしている上、100m内外の急崖をなすこと、

(c)”甲楽城断層崖”がほとんど侵食を受けないことから越前町付近には過去3回の隆起運動があったとした。さらに、甲楽城断層の活動は第1段丘形成以降であるとしている。

塚野(1953,1969)、塚野他(1964)は、敦賀湾北方の干飯崎から南東方向に約21km連続し、比高が最大で400mに達する、ほとんど浸食を受けていない断層崖を甲楽城断層と命名した。断層崖の上の山稜にある11箇所の鞍部を、断層により上流部を奪われ,形成された風隙であるとした。

甲楽城、今泉、河野付近では急崖を欠くか、標高40〜60mにおよぶ幅の狭い海岸段丘が分布していることを認め、そして甲楽城断層崖の形成の時期は断層崖頂上の平坦面の形成後であるとしている。

岡山(1956)は、西南日本の地形、地質の大構造から敦賀湾〜伊勢湾(構造線)を提唱し、甲楽城断層をこの大構造線の北端に位置するものとした。

松田、岡田(1968)、松田(1969,1972)、岡田(1971,1973)は、中部地方の活断層と 主要構造線の分布図で、甲楽城断層を活断層の可能性のあるものとして図示した。

藤田(1974)は、第四紀地殻変動図「近畿」の中で、甲楽城断層を”第四紀に活動した地質および地形的に明瞭な活断層”として図示している。図から判読すると、その長さは約25kmである。

松田他(1975)は、「日本の活断層分布図」の中で、甲楽城断層を活断層として図示し、図から判読するとその長さは約23kmである。

太田、成瀬(1977)は、日本の海岸段丘の汀線高度から各地の地殻変動を論じている。丹生山地については、S面(中位段丘)の旧汀線高度を30〜115m(図から判読すると越前崎が最大の隆起域で、その南北で高度を減じる)とし、中位段丘の形成年代130,000年、当時の海面高度5mとして平均隆起速度の最大値として0.9m/1,000年を 算出している。また、完新世段丘の最高旧汀線高度を8mとし、完新世段丘の形成年代6,000年、海面高度2mとして同様の隆起速度を1.0m/1,000年としている。そして、佐渡島、能登半島、丹生山地および丹後半島の隆起海成段丘を変動様式の同一地域 とし、そこでは旧汀線高度が不連続的に変化し、断層で境された地塊運動を示すタイプとしている。

垣見他(1978)、加藤(1980)は、「日本活断層図」の中で、甲楽城断層を活断層および推定活断層として図示し、図から判読するとその長さは約19kmである。

日本原子力発電株式会社(1979)、甲楽城断層の文献調査、空中写真判読および地表地質踏査や海域の物理調査を実施した。その結果、甲楽城断層は大谷沢(大谷集落の南ある沢、以下大谷沢と呼ぶ)に認められた断層破砕帯の走向から、陸側へは、大谷沢に沿って約1.5km延び、海側へは海上保安庁資料および海上音波探査等から大谷沢沢口から干飯崎沖までの約18.5km、総延長20kmの活断層と判断した。

甲楽城断層の活動性については、

(a)陸上部では大谷沢の沢口に認められた破砕帯を不整合に覆う扇状地堆積物が断層によって変位を受けていないこと、

(b)断層およびリニアメントとの南方延長上の大谷沢の谷頭部の山頂に顕著な高度に差がないこと、

(c)大谷沢付近で変位地形が認められないこと、

(d)この沢の両側の扇状地の高度に大きな差がないことを根拠として、最近の地質時代にはこの断層の活動はなく、甲楽城断層の活動は扇状地が堆積した武蔵野期以前であると推定した。しかし、その長さの大部分を占める海域の部分の活動性は明確でないので、第四紀後期の活動性の可能性もあると評価している。

加藤他(1985)は、縮尺50万分の1、活構造図「金沢」の中で、甲楽城断層を北東側隆起の推定活断層(主として第四紀後期に活動したもので、平均変位速度が1m/1,000年以下のもの)として図示している。図から判読すると、その長さは約18kmである。

活断層研究会(1991)は、甲楽城断層を長さ16km、確実度・、活動度B級の、東側隆起の活断層として図示している。さらに,北西延長の海域(宮津図幅)に同方向で長さ14kmで延びる確実度Uの”若狭湾断層群S1断層”を図示している。同断層は、海底面と堆積層を断層変位基準として南西側15〜50m上昇の撓曲崖を伴うものと記載している。また、山中断層を長さ5kmの確実度U、活動度C級の活断層で、尾根と谷を変位基準とすると100〜200mの左横ずれと記載している。

地質調査所(1992)は、縮尺20万分の1地質図「岐阜」において、陸域の甲楽城断層と想 定される大谷沢口付近から柳ヶ瀬断層と想定される断層を連続した断層として図示している。周辺の美濃帯の中・古生層や中生代末の花崗岩類等は同断層で切断されている。

地質調査所(1994)は、縮尺10万分の1「柳ヶ瀬−養老断層系ストリップマップ」において、柳ヶ瀬−養老断層系を若狭湾の北東から伊勢湾にかけて北北西−南南東方向に連続する活断層群(北から甲楽城、山中、柳ヶ瀬、鍛冶屋(カジヤ)、醍醐(ダイゴ)、 関ヶ原、宮代(ミヤシロ)、養老、桑名、四日市の各断層セグメント)からなるとし、その延長を約140kmとしている。

このうち、甲楽城断層を甲楽城付近からから南南東方向の大谷沢付近まで、海岸から約1km沖を海岸線に並走する北東側隆起の伏在推定活断層(後期更新世以降に活動したもの)とし、大谷沢口付近から同断層は南東方向の谷中を約1.5km延びるものとして図示している。

山中断層については甲楽城断層南東端で約1km北東側を併走するものとし、同断層の北西端と南東端の約0.5km区間を後期更新世以降に活動した推定活断層とし、残りの4kmを実在としている。左横ずれを示す系統的河谷の屈曲(100〜300m)および 御所ヶ谷上流の尾根における中新世の安山岩および閃緑斑岩の岩脈中に35W/55Wで、 幅30cmの断層破砕帯を同断層としている。

山本他(1996)は、越前海岸に発達する海成中位段丘群を高位からM1,M2,M3と区分し、それぞれの形成年代を12.4万年、10万年、8.1万年と仮定した。そして、当時の古海水面高度をそれぞれ+6m、−9m、−19mとし、M1段丘旧汀線高度分布を基準として最大で1m/1,000年の隆起速度を算出し,少なくとも後期更新世以降,越前海岸は著しい隆起域にあるとを明らかとし,隆起運動を引き起こした活断層として,甲楽城断層を想定している。

金折(1992〜1996)の一連の活断層研究では、敦賀湾−伊勢湾構造線をブロック構造の境界(断層系)と解釈し、その北端に甲楽城断層は位置する。同構造線は、東側の中部マイクロプレートと西側の近畿および外帯マイクロプレート(従来の藤田:1972の近畿三角地帯)のマイクロプレート境界をなすものとしている。大地震の震央がブロック境界に沿っておきていることから、ブロック境界の活動を反映して大規模な大地震が起きると想定している。