(2)地質各論

a.門ノ沢層

本層は清水(1919)により命名、Otsuka(1934)により再定義されたもので、鎮西(1958)の白鳥川層群門ノ沢累層、北村編(1986)及び地質調査所(1991)の門ノ沢層に相当する。模式地は二戸市館より鍵取に至る白鳥川下流一帯であり、調査地域では二戸市北東部の長川上流および名川町南部の石和南西に狭い分布が見られる。本層は模式地では層相から基底部の館砂岩部層、主部の尻子内シルト岩部層、上部の鍵取砂岩部層に分けられている。このうち、調査地域には尻子内シルト岩部層のみが分布し、層相は主に灰〜暗灰色のシルト岩(頁岩)からなり、所により同色の細粒砂岩の薄層や厚さ1〜2mの中〜粗粒砂岩を挟む。構造は二戸市北東部において概ね東西から北西−南東の走向で、北ないし北東へ20゚〜45゚の傾斜を示し、名川町南部において北北西−南南東の軸を有する背斜構造(西翼部は14゚〜23゚、東翼部は40゚前後の傾斜を示す)をなす。なお、本層は背斜南部の東翼をN−S系の高角度断層(折爪断層に相当)に切られていると推定される(後述)。

調査地域に分布する最下位の地層で、上位を末ノ松山層高屋敷粗粒砂岩部層に整合的に覆われるが、一部は断層関係で接していると考えられる(後述)。 本層の時代はActinocyclus ingens帯〜Denticulopsis praelauta帯の珪藻化石群集を含む(Maruyama、1984;Akiba、1986)こと、また、模式地付近の中〜上部は、Globiraebulloides pseudociperoensis・Globorotalia praemenardii ar− chaeomenardii・Globigerinella praesiphonifera等の浮遊性有孔虫化石を含む(佐俣、1976)ことなどから、中期中新世の16Ma頃と考えられている(北村編、1986)。

b.末ノ松山層

本層は清水(1919)により命名され、Otsuka(1934)が再定義したもので、北村編(1986)及び地質調査所(1991)の末ノ松山層に相当する。本層の模式地はJR東北本線鳥越トンネル東方の浪打峠北斜面一帯であり、調査地域では南部町北部の沖田面北方から名久井岳を経て、名川町南部の岩手県境付近まで、北北西−南南東方向にほぼ連続的に分布する。本層は主に粗粒砂岩からなり、安山岩質の火砕岩を伴う。Chinzei(1966)は、本層を西から月舘砂岩・合川安山岩・穴牛砂岩・五日町砂岩(五日町凝灰質砂岩)・米沢砂岩・新田砂岩・名久井岳安山岩の7部層に分けているが、調査地域にはこのうちの五日町凝灰質砂岩部層、名久井岳安山岩部層及び米沢砂岩部層に対比される高屋敷粗粒砂岩部層(田野、1965)が分布する。

(1)五日町凝灰質砂岩部層

本部層はOtsuka(1934)により命名されたもので、鎮西(1958a)の五日町凝灰質砂岩及び北村編(1986)の五日町凝灰質砂岩部層に相当する。本部層の模式地は二戸市五日町の岩谷橋付近であり、調査地域では名久井岳の東部、南部、名川町南部の石和南西及び二戸市北東部の市民の森付近に断続的に分布する。本部層の下部では泥質の細粒砂岩や砂質シルト岩が卓越するが、上部では中〜粗粒砂岩が卓越するとともに、次第に凝灰質となり、所によって安山岩質火山礫凝灰岩を挟む。構造は名久井岳付近及び名川町南部においては、北北西−南南東の軸を有する背斜構造(両翼部とも概ね10゚〜30゚程度の傾斜)をなしている。名川町南部の東翼側は北北西−南南東の推定断層(折爪断層に相当)によって切られている可能性がある(後述)。二戸市北東部においては、概ね東西性の走向で北へ20゚前後の傾斜を示すが、東側は北東−南西方向へ変化する傾向を示すと共に、上記推定断層を介して高屋敷粗粒砂岩部層と接しているものと推定される。層位関係は下位の門ノ沢層に整合に重なり、上位の名久井岳安山岩部層に漸移的に覆われる。

 本部層の最上部にGloboquadrina dehiscens、Globorotalia peripheroronda、Globorotalia mayeri、Globorotalia scitula praescitula などの浮遊性有孔虫を産する(佐俣、1976)Globorotalia scitula praescitulaがKennett andSrinivasan(1983)によれば化石帯N6帯〜N10帯に属することから、本部層の時代は前期〜中期中新世の18〜14Ma(尾田、1986)と考えられる。

(2)名久井岳安山岩部層

本部層は鎮西(1958 a)により命名されたもので、北村編(1986)の名久井岳安山岩部層に相当する。本部層の模式地は三戸町名久井岳山頂付近であり、調査地域では南部町北東部の諏訪平付近から名久井岳一帯を経て、名川町南部の石和南西までほぼ連続的に分布する。本部層は主に紫蘇輝石普通輝石安山岩質の凝灰角礫岩や火山角礫岩からなり、所により同質の溶岩を伴う。また、しばしば火山礫凝灰岩や粗粒凝灰岩、凝灰質砂岩等を挟み、明瞭な層理を示す部分が見られる。北北西−南南東の軸を有する背斜構造(傾斜は両翼部とも概ね10゚〜30゚程度)の中核をなし、東翼の一部(名川町南部の官代南西から岩手県境にかけて)では 40゚〜65゚の急傾斜を示し、北北西−南南東の断層(折爪断層に相当)が推定される(後述)。下位の五日町凝灰質砂岩部層に整合的に重なり、高屋敷粗粒砂岩部層に整合的に覆われる。

本部層の時代は化石の産出は報告されておらず、生層序からは特定できないが、上下の層序的関係から中期中新世の噴出物と考えられる。

(3)高屋敷粗粒砂岩部層

本部層は田野(1965)により命名されたもので、鎮西(1958a)の米沢砂岩部層にほぼ相当する。本部層の模式地は調査地域の南部町高屋敷付近と推察され(詳しい記載はない)、南部町北部の沖田面北方、名久井岳北麓、及び名川町南部の法光寺南方から岩手県境にかけて断続的に分布する。本部層は主に灰白色〜黄灰色の石灰質粗粒〜極粗粒砂岩からなり、所により細〜中粒砂岩や細〜中礫礫岩を伴う。全体に貝殻片を豊富に含み、固結度はかなり高い。しばしば斜交葉理を伴い、特に名川町南端の岩手県境付近では、10cm以下の間隔で層理が発達し、板状を呈する。南部町においては、北へプランジした緩やかな背斜構造(傾斜は10゚〜20゚程度)の軸部及び両翼部を構成し、名川町南部においては、北北西−南南東の軸を有する背斜構造の東翼をなすとともに、更に東側では南−北ないし北北西−南南東方向の小規模な背斜構造や向斜構造を形成している。名久井岳を取り巻く背斜構造東翼部のうち、北半部は高屋敷粗粒砂岩部層が名久井岳安山岩部層を整合的に覆っていると考えられるが、南半部では地層面の逆転や急傾斜、五日町凝灰質砂岩部層の欠如部などがあり、高屋敷粗粒砂岩部層の西側は断層により切られている可能性がある。下位の名久井岳安山岩部層に整合的に重なり、留崎層の目時貝殻質砂岩部層や宮沢砂岩部層に整合に覆われる。

 本層からは北村ほか(1972)により浮遊性有孔虫Globorotalia scitula praescitula、Globigerinoides subguadratus、 Praeorbulina glomerosa curva等が報告されており、Praeorbulina glomerosa curvaがKennett andSrinivasan(1983)によればN8中部〜N9下部化石帯に属することから、本部層の時代は前期〜中期中新世の16Ma前後(尾田、1986)と考えられる。

c.留崎層

本層は鎮西(1958 b)により命名されたもので、北村編(1986)及び地質調査所(1991)の留崎層に相当する。本層の模式地は三戸町留ヶ崎であり、調査地域では五戸町と南部町の境界付近に分布するほか、名川町西部の高瀬付近にも断片的な露出がある。本層は主に砂岩・シルト岩からなり、鎮西(1958 b)は下位より目時貝殻砂岩、宮沢砂岩、川口頁岩、下斗米珪藻シルト岩、上目時シルト岩の各部層に区分しており、調査地域にはこのうちの目時貝殻砂岩部層と宮沢砂岩部層が分布する。

(1)目時貝殻質砂岩部層

本部層は鎮西(1958 b)により命名された。北村編(1986)の目時貝殻質砂岩部層に相当する。本部層の模式地は三戸町目時駅西端の崖であり、調査地域では南部町北東部の玉掛北方から名川町西部の高瀬南方にかけて、断続的に細長く分布する。本部層はフジツボ片や貝化石の密集する粗粒砂岩で特徴づけられ、石灰岩化している部分も多い。所により細礫を含み、一般に斜交層理が発達する。北へプランジした背斜構造の軸部から東翼部を構成し、傾斜は軸部で北へ12゚、翼部で東へ60゚〜70゚と急傾斜(撓曲)を示す。下位の末ノ松山層に整合に重なり、宮沢砂岩部層とは指交関係にある。

本層からは浮遊性有孔虫のGloborotalia peripheroacuta が報告され(丸山ほか、1989)、Kennett and Srinivasan(1983)よればN10帯〜N11帯に属することから、本部層の時代は中期中新世の14Ma前後(尾田、1986)と考えられる。

(2)宮沢砂岩部層

本部層は鎮西(1958b)により命名されたもので、北村編(1986)の宮沢砂岩部層に相当する。本層の模式地は調査地域の南部町宮沢の旧陸羽街道沿いであり、五戸町と南部町の境界付近に分布するほか、名川町西部の高瀬南方に断片的な露出がある。本層は主に青灰色〜黄緑色の塊状細粒砂岩からなり、所により石灰質団塊が層理に沿って発達する。最上部近くに白色の凝灰岩の薄層を挟む。北へプランジした背斜構造の軸部から両翼部を構成し、南に開いた緩やかな馬蹄形をなして分布する。傾斜は軸部で北へ10゚前後、西翼部で北西へ10゚〜20゚程度であるが、東翼部では50゚〜70゚前後の急傾斜となって、撓曲構造を形成している。前述の目時貝殻質砂岩部層とは指交関係にあり、上位の舌崎層に整合に覆われる。

本層はSaito(1962)の浮遊性有孔虫化石帯区分Globorotalia fohsi barisanensis Zoneに相当し(北村ほか、1972)、Oda(1977)によればN9帯上部に対比される。したがって、本層の時代は14〜15Ma頃と考えられる。

d.舌崎層

本層は鎮西(1958b)により命名されたもので、北村編(1986)及び地質調査所(1991)の舌崎層に相当する。本層の模式地は二戸市舌崎〜三戸町上目時の馬淵川沿岸であり、調査地域では五戸町手倉橋付近の浅水川左岸から、南部町北東部の相内付近にかけて分布するほか、名川町西部の高瀬付近に断片的な露出がある。本層は主に暗灰色〜暗緑色のシルト岩からなり、厚さ5〜80cmの細〜粗粒砂岩をしばしば挟む。また、所により厚さ20〜150cmの軽石質粗粒凝灰岩を伴う。北へプランジした背斜構造の軸部から両翼部を構成し、傾斜は軸部で北へ10゚前後、西翼部で北西へ10゚〜20゚程度である。東翼部の軸部近傍では北東へ 10゚〜20゚の緩い傾斜であるが、約1km東では50゚〜70゚前後の急傾斜となって、撓曲構造を形成している。下位の留崎層を整合に覆い、上位の久保層に整合に覆われる。

本層の時代はMaruyama(1984)によれば珪藻化石帯としてDenticulopsis dimorpha 帯・Denticulopsis katayamae 帯・Thalassionema schraderi帯が認められるとしていることから、後期中新世の7〜9Maとされている(北村編、1986)。 

e.久保層

本層は鎮西(1958 b)により命名され、Chinzei(1966)により再定義された。本層の模式地は三戸町久保の熊原川沿岸であり、調査地域では五戸町南西部の浅水川中流域から、南部町北東部の相内付近にかけて分布するほか、名川町西部の高瀬付近に断片的な露出がある。本層は鎮西(1966 英)によれば下位より釜沢砂岩シルト岩互層部層、釜沢凝灰岩部層及び久保砂岩部層に分けられているが、調査地域には主部の久保砂岩部層のみ分布する。地質図には久保層として表示した。

久保層(久保砂岩部層)は主に黄灰色の軽石質中〜粗粒砂岩からなり、時に軽石凝灰岩やシルト岩の薄層を挟む。また、所により細礫岩〜礫質粗粒砂岩を伴う。構造は北へプランジした背斜構造の軸部から両翼部を構成し、馬蹄形をなして分布する。傾斜は軸部及び西翼部で北〜北西へ5゚〜10゚程度と緩やかであるが、東翼部の北側で北東へ30゚〜40゚、東側で東〜北東へ50゚〜70゚前後の急傾斜となって、撓曲構造を形成している。下位の舌崎層を整合に覆い、上位の鮮新統斗川層に整合に覆われる。

本層の時代は化石の産出は報告されていないが、層序的関係から後期中新世の6〜7Ma頃とされている(北村編1986)。

f.斗川層及び相当層

本層は早川ほか(1954)により命名され、Chinzei(1966)により再定義された。本層の模式地は三戸町斗内付近の熊原川沿岸であり、調査地域では十和田市南部の後藤川流域から、五戸川・浅水川流域を経て名川町西部の馬淵川左岸まで広く分布するほか、同町久井付近にも断片的な露出がある。また、斗川層相当層は、名久井岳東麓の名川町法光寺付近から同町南部の岩手県境にかけて分布する。本層は主に黄灰色の細〜粗粒砂岩からなり、しばしばシルト岩の薄層を挟んで数10cm単位の互層をなす。また、所により礫岩や軽石凝灰岩、亜炭を伴う。本層の下部には、剣吉凝灰岩と呼ばれる厚さ約10mの粗粒軽石質凝灰岩を挟む。馬淵川以北では久保層以下の中新統に調和した背斜構造をなし、中新統を取り巻くように分布している。しかし、この背斜構造は北へ向かって次第に緩やかになり、調査域北端の後藤川流域では地層の傾斜が概ね北〜北東へ10゚以下となって消滅する。また、背斜の東翼部に形成された撓曲構造の傾斜も、馬淵川北岸で50゚〜70゚、浅水川付近で40゚〜50゚、五戸川南岸で25゚〜35゚と次第に小さくなり、五戸川北岸ではほとんど消滅している。一方、名久井岳東麓の斗川層相当層は、南北ないし北西−南東の軸を有する緩やかな向斜構造をなす。両翼部の傾斜は概ね10゚〜15゚を示す。なお、この向斜軸は名川町官代を通る北北東−南南西の断層(逆断層と判断)によって、東西に変位しているものと推定される。層位関係については、馬淵川付近から北に分布する斗川層は、下位の久保層とは構造に差異がほとんど認められないことから整合と判断され、第四紀更新世以降の段丘堆積物や火山噴出物に不整合に覆われる。また、名久井岳東麓の斗川層相当層は、中新統末ノ松山層高屋敷粗粒砂岩部層を不整合に覆い、第四紀更新世以降の段丘堆積物や扇状地・麓屑面堆積物に不整合に覆われる。

本層の時代は、Anadara amicula・A.ommaensis・Fortipecten kenyoshi−ensis・Fortipecten takahashii・Turritella saishuensisなどの浅海性軟体動物化石(斗川動物化石群:鎮西、1961英)を産することから、北村編(1986)では、鮮新世の2〜6Ma頃としている。大石ほか(1995)は、"はちのへくじら"発掘の報告書の中で、同層上部の凝灰岩のフィッショントラック年代3.6±0.5Ma〜3.0±0.5Maを報告している。なお最近の文献によれば、鮮新世の年代について Berggren et.al.(1995)が約5.3〜1.7Maを報告している。

g.更新統及び完新統

更新統及び完新統については後章の「2.4.2 段丘堆積物とテフラ−段丘等調査結果−」で詳述するので、ここでは概要を述べるにとどめる。

更新統は各段丘構成層、軽石流堆積物及び扇状地・麓屑面堆積物から構成され、主に礫・砂・シルト・粘土のほか軽石・火山灰等からなる。完新統は完新世の段丘構成層、扇状地・麓屑面堆積物及び沖積層から構成され、礫・砂・シルト・粘土のほか軽石等からなる。