4−3−5 金沢断層が陸羽地震で活動していた可能性

山崎(1896)は陸羽地震直後の現地調査報告で,金沢断層にあたる範囲については次のように述べている(図4−13参照)。

「線は進で金沢村の北端乗上げに在る尋常小学校の北に於て國道(平和街道にして六郷より横手に通ず)を横断し爰に大裂罅を造り金沢の西に出づ・・・・・896,p.61;原文はカタカナ)。

ここで,松田他(1980)は,尋常小学校について「乗上げには当時から小学校はなく,生徒は後述の金沢本町長岡森の小学校まで通っていたとのことである(乗上げの斉藤崇男氏談,明治39年生)。=中略= 一方,金沢本町の北端には国道の傍に当時から小学校があるので,山崎が記した裂罅の位置はこの小学校の北であったと思われる。」としている。

現在の小学校の北の国道(旧道)は,活断層研究会(1991)が示した位置の300〜500m西にあたっている。また,北から「金沢の西」までは,金沢断層のほぼ北半部にあたる。したがって,山崎の記述に従えば,金沢断層の少なくとも北半部は陸羽地震時に何らかの変状を生じ,その変状を「金沢の西」まではトレースできたとみられる。その場合,変状は地形からみた断層線のかなり西側に生じている。

これに対して,松田他(1980)は,以下のように述べて,千屋地震断層の南端を,蛇沢付近(山崎;1896はここで水田の撓曲を観察)としている。

「関田(六郷東根のすぐ北方)より南では丘陵斜面の一部が西に向いた馬蹄型の地辷り地塊として水田のある低地に押し出しているがその他には地変をあらわす地形ははっきりしない。=中略=乗上げでは20戸中1戸をのぞきすべて倒壊し水田には亀裂が入ったが段差のような地変は知られていない(乗上げの斉藤崇男氏談,明治39年生)。=中略=山崎が記した裂罅の位置はこの小学校の北であったと思われる。しかし,この小学校付近では地変についての話は知られていない。また,付近を通る断層変位地形もみつからない。」

したがって,松田他(1980)の見解では,陸羽地震時に金沢断層は少なくとも地表に地震断層は生じなかったことになる。

図4−13 金沢断層と山崎(1896)の記載した変状位置関係

しかし,今回の調査の結果,三貫堰川〜御所野沼付近では,金沢断層の最近の変位の形態は,幅の広い撓曲であることが明らかになった。したがって千屋断層のような断層崖が存在しなくても,金沢断層が同時に活動しなかったとは断定できない。

地震直後に現地調査を行った山崎(1896)は,金沢断層の北端蛇沢付近の状況を次のように述べている。

「(前略)検見沢部落(蛇沢のこと)に至る。此附近に至れば断層の露頭千屋村附近に於けるが如く急激ならず全躰の田畝一面に緩慢なる傾斜をなして西方に傾き堰水の道路に全く変化を与え検見沢の部落は著るしく破壊せり」(山崎 1986.p.61)

すなわち,ここでは,地表面は幅の広い撓曲であった。そして,このあと,そのような地形の変状が金沢本町の西方まで追跡できるとしている。

今回の調査で明らかになったような撓曲であれば,地震後100年経過した現在まで,土地改良事業などで地形の改変が進み,変位地形が不明瞭もしくは消失したことも十分に考えられる。また,変状の位置が地形から判断される金沢断層よりもかなり西(300〜500m程度)に位置していることは,三貫堰地区における調査結果と調和的である。

金沢本町から睦成間については山崎の報告もないので判断しがたいが,地表の変形が幅の広い撓曲であって,特に地割などが生じていなかったとすれば,断層変位があったとしても山崎がこれを認めなかった可能性もある。ちなみに,山崎が視察を行った9月では,この地方の水田の水はおとされていて,水田の多少の傾斜は見過ごされた可能性がある。

三貫堰付近における平均変位量0.2m/千年から,仮に金沢断層が千屋断層と同じ3,500年間隔で活動したとすれば,単位変位量は0.7mとなる。これを,松田他(1980)が断層崖の高さから求めた陸羽地震時千屋断層の変位量と比較すると図4−14のとおりで,金沢断層が同時に活動していたと考えてもおかしくない変位量分布となる。

したがって,金沢断層が陸羽地震時に活動した可能性は否定できないと考えられる。

図4−14 陸羽地震時の断層変位量と金沢断層に想定される変位量の比較図