(3)地形・地質概要

1)地 形

調査地域は、知多半島の北部及び西三河平野の西部にあたり、知多半島部と西三河平野の境界に境川が南流する。調査域の西部は標高約90mの小起伏の丘陵よりなり、尾張丘陵、知多丘陵や大府丘陵と呼ばれる。尾張丘陵と大府丘陵の間に鞍流瀬川が南流し、知多丘陵と大府丘陵の間には阿久比川や大田川が流れる。境川の東部は平坦な段丘面が広がり、碧海台地と呼ばれる。

詳細は、2−1章の空中写真判読で述べた。

2)地 質

山地を形成している知多半島の中・南部には前期中新世末から中期中新世始めの海進によって堆積した、師崎層群が分布する。

調査地域の地表部には、この師崎層群は露出していない。しかし、大府市長草町において実施された深度800mに達するボ−リングでは、厚さ約520mの東海層群(知多半島では常滑層群と称する、濃尾平野周辺ではこれらの鮮新統の地層を東海層群と総称する。以下下常滑層群と称する)の下位に、厚さ約260mの海成中新統が存在することが確かめられている(嘉籐,1966;桑原,1968)。また、大府市森岡町で実施された深度1500mの深層ボ−リングでは、深度445.7mで師崎層群が、深度718.2mで、美濃帯の堆積層が分布していることが確認されている(図2−3−1参照)。

師崎層群に不整合に載る常滑層群知多半島中・北部の丘陵主部を形成する。その他、中部更新統の加木屋層及び武豊層、中部−上部更新統の段丘堆積物、完新統の沖積層が分布する。表2−3−1に本地域に分布する地質系統の層序区分・地史の総括を示す。

常滑層群は、伊勢湾−濃尾平野周辺に、中新世末(牧野内ほか,1983)から更新世前期にかけてあった東海湖盆を埋積した河成−湖成堆積物である。同様の堆積盆は、琵琶湖周辺や大阪平野周辺にも分布し、第二瀬戸内海と呼ばれている。図2−3−2は、東海層群等を堆積した東海湖の変遷の状況を示したものである。東海層群は積算層厚が2000mを超え、最下部と最上部がそれぞれ層厚数100mの礫層からなることを除き、他は厚さ数m−数10mの粘土・シルト・砂・礫層が累重する層相をなす。東海層群には特徴的な火山灰が含まれるため、その対比より離れた地域の堆積盆に堆積した堆積物であったも、火山灰の対比より堆積時代の関係が明らかになり、その分布・層序区分が可能となる。図2−3−3及び図2−3−4は、その研究結果をまとめて示したものである。

本地域の常滑層群(東海層群)は濃尾平野周辺の東海層群の全層序から見て下部が分布する。その層相は、極めて単調であり、火山灰・亜炭の薄層を挟む砂・シルト・粘土層の繰り返しからなり、一部の層準に砂礫層、まれに礫層を挟む程度である。しかし、詳細に見れば、亜炭層を比較的多く挟む下部と、亜炭層をほとんど挟在しない上部に分けられる。

加木屋層及び武豊層は、東海湖盆消滅後、猿投運動(桑原,1968)と呼ばれる第四紀後半の断層地塊運動によって新しく生じた沈降域に堆積した中部更新統である。

加木屋層(松沢・植村,1957)は知多丘陵北部の加木屋町に、武豊層(小瀬,1929)は知多丘陵南部の武豊町に分布するものに対し、それぞれ命名されたものである。いずれも常滑層群を不整合に覆い、層厚20m以下の地層からなり、ともに丘陵上−頂部を形成している。加木屋層は礫・砂から、武豊層は礫・砂・シルトからなる。武豊層には2層準に海成−汽水成のシルト層が挟まれており(牧野内,1975b)、堆積当時既に伊勢湾に海水の浸入があったことが確認されている。武豊層は産出する花粉化石から海部累層に対比されている(吉野・丹生,1976;吉野ほか,1980;桑原,1980)。

加木屋層・武豊層の分布が丘陵帯内部にまで広がり、現水系に全く規制されていないことから、当時は知多半島の地形的な輪郭は生じていなかったと考えられる。しかし、次に述べる亀崎段丘以降の段丘群の分布形態は、現水系に明瞭に対応している。したがって桑原(1980)が指摘するように、知多半島の水系の発生−すなわち知多半島の地形的な明瞭化は亀崎段丘期(高位段丘期)には、既に生じていたものとみなせる。

加木屋層の堆積年代は、火山灰や化石等が含まれていないため明瞭でない。しかし、加木屋層は、野間層(30万年前の地層)より古く、ほぼ海部累層に対比されている。海部累層の堆積年代は50万年程度前であり、加木屋層の堆積年代も50万年程度前と考えられている。

このような知多半島の隆起過程上に氷河性海水準変動が加わり、中期更新世末から完新世にかけて、本調査地域には4段の段丘が形成された。表2−3−1の下段は、伊勢湾周辺地域の氷河性海面変動曲線を示したものである。海面が低下した時代には、扇状地性の低地が広がり、砂礫層が堆積し段丘面が形成された。一方、海面が上昇した時代には、陸域に海が進入し、熱田層や南陽層などの海成の粘土層を厚く堆積している。

知多半島で発達する段丘面は、上位から亀崎・半田・岩滑・緒川段丘である。このうち最下位の緒川段丘は完新世の段丘の可能性が強いといわれる(吉田、1985)。 一方、境川の東では碧海層が広く分布しており、その堆積面(碧海面)が碧海台地を形成している。以上の各段丘を、伊勢湾周辺での広域的な区分(名古屋グル−プ、1969;濃尾平野第四紀研究グル−プ,1977など)に当てはめると、亀崎段丘が高位段丘群に半田・碧海段丘群が、中位段丘群に、岩滑・緒川段丘が低位段丘群に含まれる(表2−3−1−2参照)。

段丘の構成層は、主に礫及び砂からなる。このうち、碧海層と半田市周辺の半田段丘は、比較的厚い構成層を持ち、段丘面を構成する礫層の下位に最終間氷期の海進である熱田海進(濃尾平野第四紀研究グル−プ,1977)によって堆積した海成層が伴われる。しかし、碧海層と半田市周辺の半田段丘以外の知多半島の段丘堆積物の厚さは極めて薄く、時には段丘面のみが認定される部分がある。

西三河平野には三好面、挙母面、碧海面が広く分布する。三好面の構成層は、挙母面下に埋没する三好層と呼ばれチャ−トや粘板岩などの中・古生層系の比較的淘汰のよい砂礫層からなり、その表層部には、赤色土の化石土壌と考えられているきわめて赤い表土が発達する。北西部での本層の厚さは8〜16mであり、上流ほど厚い。

挙母面構成層は、挙母層と呼ばれ斜交葉理がよく発達する浅海成の砂層(デルタ前置層)を主体として構成された海成段丘面である。その厚さは 5〜8mと薄い。本地形面は、三好面ほどではないがかなり赤色に風化している。碧海面を構成する地層は、碧海層と呼ばれる地表で観察できる碧海層は、およそ標高20m以上では卵大以下の大きさの砂礫からなる扇状地性の堆積物であり、それよりも下流では小礫を含む砂層やシルト層からなる。

以上述べた中部更新統から完新統は、衣浦地区及び碧海台地の地下にも厚く伏在していることがボーリング資料から確かめられている(建設省・愛知県編,1965)。

完新世には泥・砂・礫からなる沖積層が堆積し、平野表層部を形成している。平野表層部をなす沖積層は谷底・氾濫・三角州・海岸平野堆積物から構成されるが、丘陵内部では谷底・氾濫平野堆積物が、平野臨海部では三角州・海岸平野堆積物が分布する。谷底・氾濫平野前面には縄文海進によって砂州・砂堆堆積物が堆積し、谷底・氾濫平野を閉塞している。また自然堤防堆積物が河川の氾濫時に、平野及び干拓地に堆積している。更に境川の現河床には、現河床堆積物が堆積している。

3)地質構造

知多半島は、猿投−知多上昇帯南部にあり、四方を北北西−南南東及び北東−南東方向の断層によって囲まれた断層地塊中に位置している(図2−3−5参照 )。その中でも特に、本調査地域が位置する知多半島北部は、猿投−知多上昇帯が南西方向から南北方向に屈曲する領域である。このため、本地域の常滑層群や加木屋層・武豊層には、2つの方向の構造−すなわち北東−南西方向の構造と、北北西−南南東方向の構造−が発達している。

北東−南西方向の構造は、猿投−境川断層・天白河口断層とほぼ同一の方向を示すが、本地域の北部に小規模に見られるのみである。この構造に従って、ほぼ東西走向を示す小規模の正断層群が発達している。一方、北北西−南南東方向の構造は、本調査地域の主要な地質構造を形成する。この方向の構造は、並行あるいは雁行状に配列する撓曲(ないし非対称褶曲)群によって表現される。そしてこれらの褶曲群が全体として名古屋港−衣浦港方向に軸を持った極めて緩やかな複向斜構造(半田向斜)を形成している。

 北北西−南南東方向の構造は、大高−大府断層や加木屋断層によって代表され、養老断層・伊勢湾断層とほぼ同じ方向を示す。北北西−南南東方向の構造には、ほぼ北西−南東走向を示す規模の小さい逆断層群が付随して発達している。

以上述べた2方向の構造は、加木屋層及び武豊層堆積当時にある程度形成されていたが、主要活動期は同層堆積以後すなわち中期更新世以降である。

したがって、2つの方向の構造−特に北北西−南南東方向の構造は、伊勢湾周辺における第四紀後半の断層地塊運動(猿投変動)によって形成されたものと考えられている。