4−3−3 歴史史料調査結果

会津地震(1611)に関する歴史史料についての調査結果を表4−1表4−2及び図4−6に示す。

寒川(1987)は、家世実紀(1815)による「山崎村境内日橋川之底涌揚り、・・・・湖に相成」(表4−1、a)、新宮雑葉記(1710)による「山崎前大川地形動上て・・・・新湖となり」(表4−1、b)の記述により、「山崎で下流側の地面が上昇し、川岸での崩壊も伴って、大川(日橋川などの河川を含む)を塞き止めたことが明らかである」とし、さらに、下流側が隆起したことは、家世実紀(1815)による「山崎村之前を掘割、川底をせり流の普請有之候故、益水落川半分程に相成候」(表4−1、c)との記述により、裏付けられるとしている(表4−1)。

しかし、塞き止めの原因については、例えば、会津旧事雑考(1672)、新宮雑葉記(1710)のように、「山崩」としているものも多い(表4−1のd、e、g、i、k)。

一方、寒川(1987)は、「当時海抜172〜173mの位置にあった青木村・・・・・・青木村の家々が屋根先まで水没したことと、聖徳寺の移動した場所が海抜174.5mということ」から「山崎新湖」の水位は約174.5m〜約175mまで上がったものと推測している。前述のように、会津地震時の塞き止め湖に堆積した縞状粘土層基底面は、標高約168.5m〜約169mを示すことから、「山崎新湖」の最大水深は約6mに達したことになる(図4−6)。このことから、大川の塞き止めの主な原因は、山崩れによるものと考えられる。

一方、家世実紀(1815)によれば、地震直後には、「人足1日6000人を動員し、掘割作業を行った結果、3日の間湛えていた水を落とすことが出来た。しかし旧に復すことは出来ず、山崎湖と呼ばれるほどの水が残されていた。」(阿賀川史、建設省;以下、家世実紀の現代語訳はこれによる。)とされている(表4−2)。

その後の水抜きの普請(広く大衆に請うて労役に従事してもらうこと)は、家世実紀(1815)によると、地震後17年後の寛永5年(1628)に行われており、「山崎村の前を堀割って川底をせり流す(急流をこしらえ、川底の堆積土砂を激しい水勢で押し流すことか?)普請を行った。このため川幅が半分になったという。」とされている。なお、「川幅が半分になった」については新編会津風土記(1809)にも、「水勢漸く半を減ぜしが」(表4−1、i)とあり、川の水量が半分になったことを示していると考えられる。しかし、この水路は「寛永8年9月19日(あるいは16日)の大洪水で再び押し埋まってしまった。」とされている。

さらに、地震後34年目の正保2年(1645)には、保科正之により、本格的な水抜きの普請が行われている。家世実紀(1815)によると、保科正之が「鉄砲衆100人か150人も遣わして、10日か15日も割り普請させれば、末代までの役に立つであろう」と考えて、6月20日から「鉄砲衆、杖突(測量する者)ともに280人」で普請を実施し、「普請は順調にすすんで水が引き」、「新田も開ける状態になった」とされている。また、この普請の13年後であるが、山崎の対岸青津村(現会津坂下町)の「品々覚書帳」によると、実際に山崎に新田が開かれている記述があり、このことから、山崎付近に地震前にも水田として利用できない土地、おそらく湿地〜湖が存在していた可能性がある。